「環境アート」という主題を自分のウェブにつけたのはもう14、15年も前のことになる。自分が何をやっても結局は自分の身の回りの環境に多かれ少なかれ影響された作品を作っていることに思い当たったときに付けた。したがって70年代で起きた歴史的な「環境アート」とは切り離れてぽつんとある。また「日本にいたらこんな作品は作っているはずがない」と思うことでフランスの環境が私の思考の反射板的となっていることがいつも浮き彫りになった。このことが、2003年のアメリカ行きを決めた要因でもある。「もしアメリカにいたとしても、今のような作品を作ってはいないだろう」という推測は、このとき現地アメリカで大いに確証を得たといっていい。自然環境のみならず、社会が違う。文化や言語のみならず、社会構造から来る気分がまったく違う。アートの成立も結局はすべて環境に帰するという思いを強くしたのはこのときだ。…
世界のアートが近代の「純粋芸術」思考から卒業して、いろいろな社会的な主題を抱合したものを容認するようになったとき(社会問題を扱う作品は大昔からあったにもかかわらず…)、ようやく私も眼から鱗が落ちて世界が日常接する環境問題を敢えてアートの主題として導入を試みるようになった。環境問題はすでにその中にエコロジー的なメッセージがある。「空気が危ない?」プロジェクトを推敲(2004年)して「光合成の木」を制作すべくあちこちに交渉して回っていたとき、この作品は本物のエコロジストからは総スカンを食らったのである。というのも、「大気汚染問題を扱う作品なのに、プラスチックを使う」というのがその理由だった。「プラスチック」は環境の敵だ、というのである。「もっと自然の材料を利用すべき」という環境保護者たちの意見大多数で、「光合成の木」の制作は構想から2年半後のアルジャントゥイユ市の企画を待たなければならない。どうしてこのときアルジャントゥイユ市は制作支援を引き受けたのだろうか。この少し前から実は、フランスでようやくプラスチックのリサイクルが始まり、分別ゴミ制度が始まったのである。日本ではすでに40年以上前から行ってきた分別ゴミ制度。フランスでは21世紀にようやく始まって、リサイクルへの意識が高まり、このころから一般市民のプラスチックへの意識が変化したのだった。「光合成の木」はこのときから「環境アート」として受け入れられたといういきさつがある。私の知る限り、自然の材料でプラスチックのように特殊ピグメントやダイを混ぜられるようなものは存在しない。また「もっと自然の材料」は大概にして自然を破壊しないと手に入らないことのほうが多い。アマゾンの森林はほかの国のエコロジーのために犠牲になっているという世界の状況を考えればいわずもがなではないのだろうか。
今作品の主題として扱っているエコロジーのメッセージを含むものの中にウォーター・フットプリントがある。ウォーター・フットプリントはエコロジー概念のエコロジック・フットプリントから派生したことばで、その定義には、植物や光合成や空気を扱うよりももっと明瞭な、数値的かつ総合的なビジョンがあるのが面白い。水はいたるところにあり、蒸発もするし、雨も降るし、実際のところはつかみきれない水が沢山あるはずだ。しかし、これを数値に還元することは可能らしい。そうして国民一人当たりに必要な水の量が算出された。フランス人であれば、一人一年間で1786トン(ユネスコ資料)を消費するという(フランスの資料は1875トン、調査年の差異)。これは衣類、電気、食物その他に利用される水の総合である。洪水が多く雨の多いフランスも、ヴァーチャル・ウォーターのこの数値でみると、フランス国内で利用できる水よりも輸入される水のほうが多く、輸入赤字になる計算だという。また、1786トン中、たった3%の55トンが家庭で利用される水の量で、残り97%は産業水であり農業水であるという。ユネスコは環境へのインパクトの大きい97%の水消費にかかわる企業や農業への感化を目指しているらしいが、こうした科学的論理的な結論は、その明解さがありがたい。それぞれ環境をテーマにする話題は、その理解や理解のためのリサーチが実は大変な作業になることが多いのだが、虚偽や曖昧さが非常に少ない分、私にとっては扱いやすい主題なのである。
トレヴァレーズ領の企画展で、ウエスト・フランスの記者のインタヴューを受けた。「それでいつごろからエコロジストになったんです?」と訊くので、「作品の主題がエコロジーなだけで、私自身はただ物事への良識があるだけです」と答えておいた。インターネットに出た記事はどうだろう。なんと「エコロジーのために闘うアーティスト」だそうだ。粉飾もまた宣伝に効果的なのかもしれないが、ゆめゆめ物事を丸ごと信じないようにしたほうがよい。(Shigeko Hirakawa)