フランスから―環境とアートのブログ

開く:記事の大見出しをクリックする
フランス文化のきのう、きょう

レ・グラン・トラボー (1)

それにしても大工事だった。歴史上にも、「過去に匹敵するようなものは見当たらず、また未来もおそらくなかなか見ないような」とは、ジャック・ラングの第一期文相時代の大臣室長だったジャック・サロワの表現である。フランスの変貌を歴史的にみると、おそらく19世紀のオスマン男爵のパリ都市改造計画が大きなものとして目立っているが、1980年代のそれは都市改造という言葉だけに還元するようなものではなく、それをさらに大きく上回る何かが胎動していて、まさしく前代未聞の時代であった。時間がたったこんにち、その成果や失敗やらを含めて「今」を見極めるために振り返ってみる必要を感じている。 1981年に始まった《レ・グラン・トラボー》は、「文化」の大工事であったことをもういちど明らかにしておかなければならない。ほんとうの建設工事の始まりだったから、大工事をそのまま訳して《レ・グラン・トラボー》とよんだ。省内では建設現場そのものだから「シャンティエ(工事現場)」とよんだらしい。フランソワ・ミッテラン大統領が音楽、文学、現代芸術、科学技術などの文化のあらゆる分野において最も活発にして優秀な活動を実現する現場となる建物を建設することを決定して開始した大工事のことである。 国のすみずみまで、そしてできるだけ多くのフランス人にいかなる国の文化財産へも、またいかなる形態の現代芸術の誕生やその変遷へも自由にアクセスを可能にしてやりたいという念願に応えて(これは1959年、アンドレ・マルローが文化省の第一の目的として条例化した課題)、この工事の中には、ルーブル美術館の再建、いまだインスティテューションが行き届かない地域へ文化施設を敷設することも組み込まれたのはいうまでもない。 1989年のフランス革命二百年記念祭にあわせていくつかの大きな新しい文化施設の開館予定を、当時の文相ジャック・ラングがこう説明している。 「1989年7月14日は、ミッテラン政権時代の大きなポイントとなります。グラン・トラボーのうち重要なものが完成し、首都の文化における地理構造が明解なものになります。西は新都市ラ・デファンスの開幕、東はバスティーユ・国立オペラ開館、中央はルーブル美術館のピラミッド完成、そして北は科学技術館ビレットができるわけですから」。 ルーブル美術館の大工事《ル・グラン・ルーブル》は完成に約20年かかったという。地下のむかしのルーブルの発掘に始まり、 マルローが夢見たように、財務省に撤去してもらいルーブル宮を丸ごと美術館にした。財務省にどいてもらうからには財務省の入る新しい建物が要る。したがってベルシーの用地に新しい財務省を建設することをきめて実行した。 収蔵作品は、ルーブルが1848年の最後の王政までをカバーすることが決まっていたから、この後の時代の美術にかんして、1970年代に工事をストップされていたオルセー駅の改造計画を呼び覚ました。ついで、ジュー・ド・ポーム印象派美術館から19世紀の作品がここに移され、19世紀美術館と命名される。空になったジュー・ド・ポームはというと、現代アートの現場が少ないという意見があったからか、国立現代アートセンターに改造されて名前も改名し、現代作家の活動を企画することになった。 ひとつ何かを動かすとチェスのようにほかも動いていかなければならない。建物を動かすその裏側で、大きな文化の大編成が逐次行われていたのは、すでに言及したところである。 先のジャック・サロワは、「インスティテューションを敷衍するだけでは文化の地方分権にはまったく不足だ」と述べている。各分野の中心となる建物を建設しておのおのの凝縮した制度を確立することは、国民の目をいっせいに文化にひきつけるひとつの手段でありまた始まりでしかないことを、彼らが十分に理解していたことを指す一文だ。パリ中が工事で地響きを立てていたとき、「大きなシャンティエに隠れて、ほんとうに進めていかなければならなかった地方への機構作りは、大本の中央の機構作りが同時に行われていたこともあり、なかなかマネージメントうまくいかず葛藤がありすぎた」とも述べている。大工事に隠れたほんとうの大事業が、サロワの文章に「Combat 戦い」やら「Militer 闘争する」やらといった攻撃的な言葉が同じページに3度も4度もでてくるように、彼らに底通する日々の執着だった。 文化省のトップにいた人たちにとっても、文化を再建することは「戦い」そのものだったのだ。 予算を勝ち取って展覧会企画をしてくれる文化のミリタンの話をしたが、こうしてみると、この時代は文化を担う人々に「戦う」姿勢が上から下まで充満していた時代だったのだなあ。

れきしの点と線 - デコンサントラシオンと文化

1969年、文化の地方分権化の始まり。 La Déconcentration – ラ・デコンサントラシオン: 文化省の中央集権的政治および事務的構造を、地域に《地域文化振興局- Directions régionales des affaires culturelles/ DRAC》を作ることによって、文化行政が地域へ出現し発展するよう発想されたもので、アンドレ・マルローによって1969年、地域3箇所に初めて地域文化振興局がおかれた。 この文化省のブランチDRACの存在によって、文化省は地域へアンテナを伸ばすことができ、かつ地域議会の文化予算に対応する予算の注入への配慮などの、中央と地域のバランスがとれていくことが期待された。 フランス国内は22の地域に分割されている。それを考えると、マルロー時代、3箇所のDRAC設置は、まったくのはじめの一歩というべき象徴的な出来事というだけにとどまり、全国に文化省の力を敷衍するまでにはいたらなかった。 1976年(ヴァレリー・ジスカール=デスタン大統領、ジャック・シラク首相)、Françoise Giroud(フランソワーズ・ジルー)が文化付閣外大臣(文化は省から閣外の局レベルに格下げされ、大臣は閣外大臣と呼ばれる)となり、短い任期中、地域文化振興局DRACの設置を制度化する条例を制定した。 ジスカール=デスタンはヨーロッパ共同体へ傾倒し、シラクはデコンサントラシオンを理由に、文化省を閣外に落としたという。財政の地方分散で文化も地域の采配に任せたという話だが、地域は自立して活動を行うまでにはいたらなかった。フランソワーズ・ジルーはこの政権下で女性の解放、平等化などへ尽力し(1974-76)、文化への思い入れのある政治家の希少なこの時期の政府の中で、文化の夢に「固執して」DRACの条例化をすすめた(1976-77)という。 La Décentralisation – ラ・デサントラリザシオン: 1982年83年(ミッテラン大統領、モロワ首相)制定の地方分権法。中央の権威や能力を地方へ分散させ、地方共同体との平衡を図る法律。この法律は政治司法、産業その他全般にわたるもので、文化も当然ここに含まれる。文化において80年代は、政府の積極策と地方共同体の熱意が功を奏し意思疎通がうまくいっていた時代であった。また文化省から地域へ配分される予算の増加とともに、DRACの体制が強化された。 1992年2月6日および7月1日、行政管区におけるデサントラリザシオン憲章設立。地方へ分散した権威に活動の権限を優先して与えることを謳ったもので、文化もこの優先権の逆転により、大いに性格が再検討され塗り替えらることになった。 したがって文化においてラング文相時代は、中央の文化政策を地域で行い地方共同体の世話をするエキスパートの役を担うというDRACの機構が実質的に形作られた時代ということができる。 (Extraits de: “L’Etat et la culture en France au xxe siècle”  Philippe Poirrier, “Le lancement de la déconcentration” André-Hubert Mesnard)

現代文化、れきしの点と線 - 国の役割

1952年、『沈黙の声』に出版されたアンドレ・マルロー/ André Marlauxのインタビューから。インタビュアー 、フランク・エルガー/ Frank Elgar。 E: ミュージアム(美術館・博物館)が発展することは望ましいですか?かえって、危険なのではないですか? ミュージアムは、芸術の退廃の兆候で、私たちの創造する力が衰退していることをさししめしているのではないでしょうか? 文明の偉大な時代には、 新しい形を創り出すことのほうが先で、過去のものの保存にはあまり配慮をしません。文化を一般にひろめることは、芸術を喜びとして感じたリ、傑作を理解したりする人間の才能の増大に結びつくことにはまったくならない、とはお思いになりませんか? M: 「偉大な時代」とは、何をさしておっしゃっているのでしょう?隆盛の時代のことでしょうね。卓越した時代が歴史を構成するとすれば、当然ミュージアムは可避できません。ミュージアムは墓場などではなく、激しい問いかけです。・・・。私たちの芸術はミュージアムから生まれ、ある意味でその論理によって発展しています。ミュージアムのおかげで過去の形を知ることができるのであって、今の私たちが新しい創造をすることとはまったく抵触するものではありません。 ・・・・・ E: さて、民主議会制度において、国の芸術的な役割とはいったいどうあらなければならないかという問題にアプローチしましょう。 こうした政体の中で、正当で理性的かつ洞察力を備えた国民の芸術生活のための執行部をつくることが可能だとお思いになりますか? もし可能だとお考えでしたら、いったいどのような条件のなかで、 そうした政策が行われなければならないのでしょうか? M: いやはや!国は芸術に、いっさい方向付けをしたりしません! 芸術に方向付けをする、とすれば、それは芸術ではなくて芸術に名を借りたほかのものになってしまいます。たとえばロシアに見たように、芸術はプロパガンダや国民を扇動するのに利用されました。・・・・。 芸術を芸術として指導する、ということをいいたいならば、それはまったく意味を成しません。現代芸術は芸術の執行部など必要としていませんから。指導というのは美術学校の段階のものでしかありません。 E: それでも、国が必要とされる場合がありますよね?もし必要とされるなら、どういった場合ですか? M: 国に負わされた使命は、美術館と展覧会、そしてコミッションです。・・・・。 行政的な問題を解く機構が薄っぺらすぎ、また支援体制も弱い。国は芸術を行っている人たちにみあった力をつけたものでなければなりません。 要約するならば、国は芸術に方向付けをしたり芸術を指導したりするためにあるのではなく、芸術に仕えるために存在します。 ・・・・・ E: この計画の主軸となる思想を概観すると、国に対するあなたの不信感は、あなたの人間への信頼感と同じくらい大きいように見受けられます。 M: 国は、現実に芸術に触れることのできるフランス人にむけて、できるだけ多くの人が芸術に触れられるよう努力をしなければなりません。 私たちは注文を受けて仕事をするようなクリエーターでもアマチュアでもありませんが、芸術を真の表現のなかで観ることができなければ、それ以下の人間になってしまいます。民主主義とは、ここでは、より大多数の人間がより広範囲の芸術作品を見ることができる政体のことなのです。 このインタビューが国と芸術の問題をさいしょに明解にしたもので、将来の政策の下書きとなった。

ル・グラン・ルーブル・プロジェクトの発端、マルローの一言

1952年、『沈黙の声』に出版されたアンドレ・マルロー/ André Marlauxのインタビューから。インタビュアー 、フランク・エルガー/ Frank Elgar。マルローが文化大臣になる7年前。 E: もし、美術大臣になられるとして、真っ先に実行に移されたいことは何ですか? M: まず、私は大臣候補ではありませんし、また私でなくても誰でもできることでしょうが、 ルーブル美術館を世界一の美術館に仕立て上げることでしょう。現在、財務省が使っている建物(リシュリュー翼)を美術館のために回収することです。それから、地方に散らばっている傑作を集合させるのです。・・・ 1981年9月26日、フランソワ・ミッテラン大統領によって、《ル・グラン・ルーブル》プロジェクトが発令された。リシュリュー翼の財務省をほかの敷地に移し、ルーブル全体を美術館に改造する大計画の始まりとなる。 セーヌ川を隔ててルーブルの対岸(つまり今のオルセー美術館がある辺り)に位置していた財務省は、1871年パリ・コミューンで焼き討ちにあい、リシュリュー翼へ入居。110年ぶりのルーブルからの撤去となった。新財務省はベルシーに建設されている。

時代を変える鍵

九州派の桜井孝美がパフォーマンスで出版した『パラダイスへの道』のおかげで、出版に寄せて1992年および、1993年辺りに書いた拙文が残っている。時間が経っているせいか、1986年のはなしすっかり忘れたようにまったく関係のない当時の時事問題を書いている。 1992年は地方選挙で社会党が大敗。社会党離れはそのまま1993年春の総選挙になだれこんで社会党は5分の一議席しか取れず、内閣解散。再び革新社会党のミッテランを大統領に、エドワール・バラデュール首相を筆頭に内閣はすべて保守系閣僚で組織される保革共存政府が成立した。第一回保革共存政府は、1986年から1988年まで。第二回目の共存政府はこの1993年3月29日から1995年5月まで、つまりつぎの大統領選挙まで続いている。 1993年は、フランスの経済危機で、ル・モンドが「オイル・ショック以来の深刻さ」と書きたて、失業率は3百十万人で11%に届き、中小企業はおろか大企業まで倒産縮小が相次ぎ、エイズ汚染血液の公判が始まり、またインサイダー問題やらなにやらで問題続きの年でもあった。美術界はと見ると、やはり画商の大手が倒産している。すでに1991年の湾岸戦争の影響でマーケットが大幅に萎縮し、ロバート・ロンゴの個展を大々的に行ったギャラリー・アントワンヌ・カンドーが活動停止し、ボードワン・ルボンが倒産請願を提出した。そのころ、私も3つほどの画廊と仕事をしていたが、この年これらの画廊は潰れるか、生き残るために転職をしてしまっている。この恐慌で、あっという間に世の中ががらりと変化してしまった。そんな年だった。 93年下半期、ミッテランが危機を乗り切るために経済対策を発表した。国営企業の24社を民営に移管するよう通達したのだ。この24社は、ルノー公社、エール・フランス、アエロ・スパーシャルなどフランスを代表する大手企業が大半を占め、国の経済を牛耳る元来の社会主義的な体制を解き、いよいよキャピタリズムへ、大きく国の方針が転換することになった。 さて、そのうらがわをよく見てみると、保守派首相のバラデュールは、第一回目の保革共存政府の折に、経済、財務、そして民営化をかねた省の大臣に就いている。むかしから保守派は国営企業の民営化を選挙のたびに公約の一番目においており、1986年も政権を執るとこれを真っ先に遂行した。 93年の経済危機は、そうした保守が大規模な民営化を促進する格好の口実となったのではないか、と漠然と考えたりしている。現実はしかしながら、国営企業は昔ながらのがんじがらめの体制も手伝って一朝一夕に民営化はかなわない。株を少しずつ売りさばいて民間の株主を増やしていくにはかなりの年月がかかっている。 93年の保守内閣の文相はジャック・トゥーボンで、さいわい現代美術に造詣が深かった。大臣になる前はパリの13区の区長でもあり、区内にモニュメントを建てたり集めたりし、またFIAC(パリの現代アートフェア)を訪れる姿を見かけたりすることもあった。 彼の下で文化省はあまり変形されずそのまま推進されたのではないかと想像しているが、問題はほかにあった。文相トゥーボンは、フランス語の乱れを嘆き、それを英語のせいにして「一切、英語を使わない」よう通達してしまったのだ。通達、というのは一種の規則のようなもので、守らなければならない。TVやラジオなどの報道関係は特にフランス語だけで話をするように強制されてしまったかたちで、英語の不得意なフランス人はますます世界から切り離されてしまった。フランスの一般がこの通達にあきれて文化大臣を酷評したのはいうまでもない。 さて、フランス語に関して、後年、特に公文書について国会で意見を述べたエリザベット・ギグの話をここに引いておきたい。 エリザベット・ギグは1997年から2002年、保守シラク大統領の下の革新派ジョスパン内閣で法務大臣に就いた社会党のインテリである。ジョスパン内閣が女性議員を増やし男性議員と同数にするための政策をすすめていた時期だったこともあるが、エリザベット・ギグがある日、国会演説のなかでこう述べた。「公文書は今まですべて男性によって書かれたもので、表現も内容も男性のものということができる。これからは女性が公文書を書く機会を増やし、これまでの公文書も女性の観点で検討されてしかるべきだ」。 この日、この演説を聴いて私は目から鱗が落ちる思いがした。こうした観点がおそらく時代を変える大きな鍵になるにちがいない。(S.H.)

1986年と今日

警察権力: 保革共存政府が成った1986年は、クリストがポン・ヌフを包んだ年でもある。おそらくこの前年のことだと思うが、当時、パリ市の市長であったジャック・シラクの下で、市の文化担当官だったフランソワーズ・ド・パナフュー(現在パリ17区の区長)が、クリストのプロジェクトをジャック・シラクに提出したとき、シラクはこう対応したそうだ。「もし成功したら、それは私のおかげ。失敗したら、あなたのせい」。この問答は、いかにもシラクの政治家の一面を物語っていて面白い。 この1986年は、保守内閣による強力な警察権力の行使でいろどられた。不法滞在者の検挙がパリ中で行われたが、その検挙方法がすさまじかった。警察官を7、8人のグループにして警戒させランダムに通行人をとめては検査をした。そのとき身分証明書を携帯していない者はその場で捕らえられ、連行された。 メトロの中では各駅で、改札口を入ったすぐのところにやはり同じ人数だけのグループの警官が待っていた。フランスのメトロはいったん改札を入ると、もう後へは戻れない。後ろには機械、前には警察官が立ちふさがり、逃げる隙間はなかった。このようなネズミ捕りのような仕掛けの中で、不法滞在者たちがつぎつぎと検挙され、検挙されると即日ロワシー空港のわきの留置所に連れて行かれて、大概の者はそのまま3日後には国外追放された。警察官だらけのパリの街が何ヶ月続いたかわからない。この取締りで捕まり国外追放された不法滞在者の数は1万5千とも2万人ともいわれている。 このとき一人の日本人が検挙された。日本では九州派で知られる桜井孝美だ。彼もロワシーの脇の留置所へそのまま連れて行かれて犯罪人のように取り調べられた挙句、飛行機を待つことになった。幸い、すぐに弁護士が介入して難を逃れ、裁判へ持ち込まれて審議されるまでいったん猶予期間を与えられることになった。裁判では、桜井孝美がフランスにいる価値のある芸術家であることを証明して、滞在許可をもらおうというのが、本人と弁護士の希望であったように記憶している。そこで桜井孝美は、周辺のフランス人や日本人の知人を集めて文書を取り、自分はこれだけの人たちに支持されているという証明として電話帳のような厚さの陳情書を作り上げた。私も書いた。桜井孝美は、この話に周辺の人たちを巻き込んで文書を作るからには、アート・パフォーマンスにするとあちこちに表明し、陳情書は『パラダイスへの道』と名づけられて内容も変化しつつ数年間、本人の手で発行され続けた。裁判はというと、滞在の手続きをきちんと取るという条件で勝利したというはなしをきいている。 外国人滞在者の管理は警察にあり、われわれの滞在許可証の発行や書き換えは滞在地の警察で行うきまりである。現在の不法滞在者の扱いや国外追放のありかたは、実はこの1986年のような強行なすがたとあまり変わらない。 数年前偶然、エデュカシオン・サン・フロンティエール(無国境教育)という協会があるのを知った。大方が学校の先生のボランティアで全国組織を持つ。彼らの主な仕事は、生徒を警察に検挙されたり、国外追放の危険から守ることにある。親が不法滞在であっても子供には教育の権利があり、実際フランスの教育の恩恵を受けている外国人の子供たちが大勢いる。教育の場に警察がはいり、そうした子供たちや子供を送り迎えする親を検挙したり、また高校などの卒業式の日に学校を取り巻いて、教育の権利を終えたばかりの生徒を正門で捕まえ、国外追放を強行したりすることが頻繁にあるらしい。そうした警官隊を前に、生徒を渡さないように同級生や先生がスクラムを組んで衝突する場面がままTVで報道されたりしている。 2010年初頭、モロッコ人の女子高校生が兄に殴られ怪我をしたので警察に駆け込んで訴えたところ、警察は兄を捕まえずにこの女子高校生を捕縛した。女子高校生が滞在許可証を持っておらず不法滞在と判明したためで、即座に国外追放されてしまった。ここで活躍したのは高校の同級生たちと エデュカシオン・サン・フロンティエール(無国境教育)協会で、内務省や大統領に陳情して女子高校生のフランス入国許可を取り付け、女子高校生は無事帰還しみんなに歓待されたことがメディアでも話題になった。異例の入国許可に怒ったのは、内務省の規約どおりこの不法滞在者を国外追放した土地の知事で、女子高校生の再入国直後、辞任したという結末になっている。(S.H.)

ネットワーク

文化省の造形芸術庁は、アーティストの活動サーキットを多様化することにも尽力した。 もちろん画廊システムが存在し、あちこち公の展示場もあり、アーティストが発表活動ができなかったわけではない。しかし、画廊はマーケット中心に動いているから、作品の選択も新しいアーティストの採用も、利益優先で行うのが常である。 したがって、ほんとうは多様なはずのアートはいってみれば経済にふるいにかけられて極限され、一般の目に触れるアートは流行一辺倒に陥りがちだった。この意味で、マーケットも負けずに閉鎖的である。 そうした商業中心の芸術市場の間口の狭さに注目した文化省は、まったくマーケット基準から離れ、新しく生まれるアートがそれなりに形になり、きちんと人の目に触れられる活動の現場をつくることに力を入れ始めた。新しい世代のアーティストの育成を目指して、文化省がもうひとつの活動様式を提供したといえるだろう。 地方には80年代、すでにいくつか大きなセンターが現代アートの活動をそれなりに行っていたが、文化省が声をかけて彼らの活動に援助金を回すしくみを敷設した。もとは地域のバックアップのものもあり、また町のものもあり、アソシエーションのものもあったが、ほとんどがしっかりした規模の活動をすぐさま発展させられるような施設の整った現代アートセンターが選ばれ、「文化省つきの現代アートセンター」という総称をもってネットワークを形成したのが80年代後半の話である。これらの現代アートセンターで受け入れるアーティストは、マーケットの外で自由に創造活動するアーティストでなければならず、そのアートはそこで今新しく生まれるアートでなければならなかった。 ばらばらだった現代アートの現場は、こうしてまとめられていき、そのことによって現代アートセンター自身も使命感を増幅していった。文化省つき現代アートセンターの連携は90年代にはりるとまたたくまに、ドイツやイタリアの現代アートセンターまでのび、ヨーロッパのアーティストの巡回やイクスチェンジの場ともなり、ようするにフランスの現代アーティストをヨーロッパに送りだす窓口の役割を担うまでになったわけである。(S.H.) CNAP-国立造形芸術センター登録、全国87箇所の現代アートセンター、住所録ページ Annuaire de 87 centres d’art contemporain en France (CNAP)

現代文化、れきしの点と線 - 芸術1%

芸術1%(アーティスティック1%)とは、公共建造物の建築あるいは改築改造などが行われる場合、その建設バジェットで環境に見合った美術作品を制作あるいは買い上げることを取り決めた政令のことをさしている。 歴史:フランスでは1951年からこの制度が出現しているが、80年代の新文化省は1%アーティスティックを、文化省が決めたインスティテュートとはまた別の「アートと一般が接する」プロジェクトであり、「アーティストの生活と税制ステータスを助けるシステム」と改めて明確にし、まずは造形芸術庁(DAP: Délégation aux arts plastiques)がこれを采配した。ちなみに造形芸術庁は、1.芸術創造の支援システム、2.現代芸術を将来の国の財産として買い上げていく、3.あらゆる方向の芸術が生まれる可能性を増やすための活動サーキットの創造と増幅、のおおよそ三つの大柱を中心に推進し、80年代半ば国立造形芸術センター(CNAP: Centre national des arts plastiques)を作り、造形芸術庁と連携したかたちでその活動を現実へ向けて立体化している。 1990年代は1993年の経済恐慌の痛手に伴い建設計画も激減し、数少なかった1%プロジェクトはいよいよ水面下にもぐりほとんど公募が消滅した感がいなめなかった。 21世紀にはいり、ようやく2002年、シラク(保守)政権下ジョスパン内閣(社会党革新派中心、1986年とは逆のあらたな保革共存時代)が改めて1%に関する政令を見直した。このとき、1%の管理はDRAC(Direction régionale des affaires culturelles 地域文化振興局-各地域に設置された文化省管轄の文化活動支援局)に渡されている。2002年のこの政令は2005年2月4日、ラファラン内閣時(文相はジャン=ジャック・アヤゴン)に改定され、1%アーティスティックを義務制度として再発令した。2006年8月16日に文化省が実際の手続きを全国に通達して今日に至っている。 義務化した1%アーティスティックは2006年以降、当然のことながらプロジェクトの量を増やしつつある。公共建造物は国のみならず、地域(Régionと呼ばれる数県をまとめた地域のことで、関東地方や関西地方のような分割に当たる)、県、市町村が所有するものが多い。たとえばフランスの公立学校の管轄を例に挙げると、高等学校は地域、中学校は県、小学校・幼稚園は町が管理し、新設校の建造や旧校舎の再建はそれぞれの管理者が行うきまりとなっている。そうした教育施設の新築再建築に伴い発生する地方の1%を、当初は文化省の地域担当官であるDRACが引き受けた。しかし今日は、文化省にたよらず、地域議会や県議会が独自に1%プロジェクトを采配するところが増加しており、そうした公共団体は直接一般へ公募でアートプロジェクトを募っている。 地方の自立傾向は、こうした1%プロジェクトのアート選びにも見受けられる。これは政府が文化のみならず、政治その他の体系を分権化(Décentralisation, Déconcentration)しようとして長年政策を進めた賜物のひとつといえるだろう。 2008年あたりから、1%アーティスティック・プロジェクトのバジェット増加が少しずつはじまった。物価高騰によるところが大きい。

ブログのプロローグ

フランスのアート状況のきのう、きょうをテーマにブログを開設する。 1.フランスの今日のアート、2.フランスの社会と日常、3.私の日常(アーティストの毎日)、という三つを中心に多くの情報を収集しながら私の話をはじめようと考えている。 1983年に渡仏をして今日までフランスで創造活動をしている私は、必然、フランスという社会の日常のなかで仕事をしてきたことになる。毎日ここで生き作家として存在していくことは、この社会の現実や問題に直接ぶつかっていくことでもあったから、フランスの今日のアートを私なりに叙述するにはこれらの三つの事柄が、自然に盛り込まれてくることになると思う。 EC・欧州連合が成立して10年になり、殊にこの5、6年のフランスの社会の動向は劇的に目覚しい。この目を見張る変貌の中で、アートのありかたもどんどん変化を遂げている。その変化はここ30年のフランスの努力ともいえるものだが、成果として見えるようになったのは、EC統合後、世代交代が目に見えて始まった時点であったように思う。 1980年代に、まずは社会党新政府が、ジスカール・デスタン時代に局レベルに格下げされていた文化省を再建して予算を倍増し、現代文化のインフラストラクチャーを全国に建設し始めたが、20年以上経った現今、それら施設のアートディレクターが世代交代をして活動することが「当たり前」のようになり、また文化における地方分権が現代文化振興の概念とともに政治の中にしっかりと根を下ろし始め、全国各地で公共団体やECなどから文化予算を配布されて活動する協会や地方・県・市町村が出現し続けている。中央中心、あるいは専門家だけの現代アートではなくなり、地方レベルであちこちで自立した活動(しかもしばしば高レベルのイベント)が行われているのがはたして夢のようだ。 私が渡仏した当初、誰も「現代アート」などという言葉を知らなかった(言葉が文法的にちゃんと存在していても)フランス国民が、いまや、小学校の校長先生から6歳から11歳までの全学年のワークショップに、「サイト・スペシフィック・インスタレーション」を課題にしてほしいという要請を受けるような時代に変貌した(2010年2月、ドルドーニュ県ビューグ市の小学校でワークショップ、フランス教育省援助)。 大学レベルの講演などにも招待されて学生の前で話をすることもあるが、小学校で、小さい子供に現代アートのはじめの一歩をいう願いに応えてワークショップができることは画期的とも言うべき出来事で、フランスの過去を知っている私にとっては幾段も嬉しい。こうしたアドミニストレーションの柔軟さは、フランスにおいても希少ではあるが、先生たちの熱意がありさえすれば実現できる時代がフランスに到来したことに感慨せずにはいられない。 フランス国民がこうしていろいろな方向から長い時間をかけて咀嚼してきた現代アートを含むフランス現代文化が、見えないところから支障をきたし始めている。いや、見えるところから言えば、すでに2007年、サルコジが大統領に当選したとき、内閣編成で「文化省」が省からはずされる、という噂が飛んで、文化人がだいぶ身構えた。省にとどまるか局レベルに落とされるかの問題は、即時的に予算の問題である。省から格下げされれば予算は大幅削減である。文化省はこのとき幸い、そのままとどまった。昨年あたりから再び地方の芸術活動を支援する協会から不平の声が聞こえ始めているが、どうやらこれは、文化省よりも国がおしきせる支援体制の組織の複雑化によるものらしい。 「協会」とは、フランスでは1901年協会法という法律があり、この法にのっとった協会は国の支援を得られることになっている。80年代に立ち上がった地方の大きな現代アートセンターの群れも、また昔ながらのサロンといわれるパリの公募展がいくつかあるが、それらサロンもみな協会(アソシエーション)を成立させて援助金を獲得し、毎年の企画をまかなっている。その援助ゆえに、協会設立は今もあちこちで行われているのである。 不平の声は昨年仕事をさせてもらったドルドーニュの協会からあがった。公共の援助金は公庫から出るので、出費の際の領収書を含めた多くの資料が引き換えに必要になるが、 今回、資料作成を二重に複雑にさせられた上に、その資料提出先が今までの文化事務局ではなく、農業事務局だというのである。文化事務局がどこへ消えたのかはわからないが、農業事務局が兼任(農業と?)することになり、勝手のわからない事務局から一向にわれわれの書類が動いてくれない、ということだった。農業事務局が協会の資料を再作成するようにいってきたので、私も協会に提出した私の給与や材料費返済にかんする領収書を書き換えさせられた。事務局から資料が動かなければ、出費返済も進まない。協会は赤字を抱えたまま、翌年の企画を始めなければならないことになった。「そんなバカな」と誰もが言う。フランス文化省が再建されたとき、組織拡大に伴って、政府は「文化創造に寄与するために、役人の文化教育を怠らない」という条文を発令した。発令して、現代アートのために新設した造形芸術局のパンフレットに印刷し、オペラ通りの事務所のレセプションに誰もが持って帰られるようにパンフレットを山積みにした。文化を理解して、はじめて文化予算を采配できる、という政府の配慮を皆に知らしめたわけだ。四半世紀も積み上げてきたその道理が、こうして簡単にへし折られた。 鼻先をへし折られてがっかりしているのはドルドーニュの協会に限らない。小さい団体ほど、影響を受けやすくつぶれやすいはずである。先週だったか、地方の一般の人々とじかに接して活動している文化団体がこうした不都合に対してストライキをした。不合理への糾弾は、即実行の国である。 さて一方で、フランスのオーガナイゼーションの規模の振幅は、今までになく大きい。 大物を上げれば、国際ビエンナーレは、エスチュエール(ナント市から河口のサン・ナゼール市まで約60kmにわたる地域で開催)、リヨン・ビエンナーレと、フランスは二つも抱えているし、 地域の中レベルのビエンナーレ、トリエンナーレは数え切れないほどの有様である。地方、県、市町村も、おのおの「文化振興局」を持って機能させており、企画野外展も数多い。 これらの企画は、地方であるがゆえに、また公共団体の企画であるがゆえに、情報がその地域にとどまったきり、中央(パリ)まであがってこなかったり、ほかの地方へ広まらないのがこれまでの常であった。町中が全身全霊でかかりきりの、また知られたアーティストが十二分に力を発揮して仕事をするような大きな展覧会であっても、単に全国紙のジャーナリストがパリから一歩も出ない(出られない)という理由だけで、不問に付せられてしまうことがいかにも多かったのである。フランスが自分で潰してしまう情報は、外からも見えるはずはない。こうしたフランスの情報収集の方法とズタズタともいえる情報網の弱点は、当然のようにフランスの現代創造を外国から過小評価させることになった。 新聞や雑誌などのプレスがセレクティヴなのは仕方がないどころか「当然」だ、という向きもあるだろう。問題は、セレクティヴであれば、何を基準に選択をしているかということだろう。 このブログに載せる記事は、したがって、今までのプレスのあり方をはずれ、フランスがここまでにいたった理由を交えながら、地方の大きな企画の紹介や現代アートの創造の現場を紹介し、私の経験や眼識を通しつつ、グローバルにフランスのすみずみまでその今日を提示していきたいと考えている。(S.H.)

現代文化、れきしの点と線 - ミリタンティズム

20世紀のアーティスト・イン・レジデンスをレジデンシーの氷河時代といったが、アーティスト・イン・レジデンスに限らずこの時代の現代アート政策全体の閉鎖性は、今のフランスの開けた現代アートの現場を考えると、おそらく必要不可欠の昆虫で言えばサナギの時代だったのだろうと思う。フランスが自分の現代アートの方向性を真剣に試行錯誤していた時代で、ほかからの異物の因子の浸入もすみずみまでコントロールしなければならなかった。 ちょっと彼らの文化の歴史を振り返ってみると、史上初の文化省設立はアンドレ・マルローが担当して1959年に実現した。10年続いたのだが、その間に実行に移せた現代文化プランはメゾン・ド・ラ・キュルチュール(文化会館)を全国で三軒建てただけにとどまった。予算がほとんど出なかったのだ。しかしインテレクチュアルのマルローとマルローを支える知識集団が、文化について、またこれからの現代文化について検討しつづけ、夢を明文化した。明文化したものは文化省の貴重な基本概念となって今まで生き続けることになった。その主旨のひとつは、「いままで特権階級にのみアクセスが可能であった芸術を一般市民のすみずみにまで鑑賞可能なものにしたい」、そのための文化政策が必要だというものであった。 1970年代、ポンピドーのあとを継いだジスカール・デスタン政権は、文化省を局程度に格下げした。もともと多くなかった文化予算はこうして大幅削減した。またこの時期はオイル・ショックで世界中が恐慌をきたし、フランスもどん底を味わっている。 社会疲弊を苦しみぬいたフランスは、1981年の大統領選挙で社会党のミッテランを選んだ。文化省の再建は、このミッテラン政権下で行われた。確か、この80年代の文化省は、10個の庁で構成されていたように記憶している。文化環境調査、音楽・ダンス、劇場、文学、アーカイブ、遺跡、映画、美術館、文化教育、そして造形芸術庁の10個である。造形芸術庁は現代芸術の専門の庁として、美術館からも遺跡管理からも、また美術教育からも独立した機構を初めて確立した。独自の機構の確立とは、機構独自の思想の確立のことである。現代芸術のインフラストラクチャー作りがこうして始まった。造形芸術庁のもとで、現代アーティストの作品買い上げ制度、アトリエ建設、1%プロジェクト、アーティスト・イン・レジデンス、支援金制度などが少しずつ推し進められた。地方への敷衍は、各地域に文化振興局を配置して文化省からの援助金をすみずみの文化活動へ注ぎ込めるようにし、また作品買い上げも地域ごとに組織をつくり、その地域のアーティストの作品を中心に買い上げる組織を作りはじめた。経済的に厳しかった70年代からの立ち上がりでもあり、また、新しい機構作りを並行して行いながらの編成である。82年に文化予算を倍増したものの、思うところへ思う予算を回すにはどうしても時間がかかった。勢いいつものように、思想のほうが先行せざるを得なかった。まだ何も実現しないうちに肝心の思想が潰れてはいけない。必要以外のものから新しい組織を防衛する必要もあっただろう。おそらくそんな時代に、私などは彼らの鉄の壁のような閉鎖性に向かい合っていたように思う。 事実、文化省再建は決して順調にはいかず、再建後5年も経たない1986年、国民議会議員選挙で社会党が敗退し、社会党のミッテランを大統領に保守タカ派のシラクが首相となり、内閣の大半を保守が占める保革共存政府がなった。保守からフランソワ・レオタールが文相に就任し、文化予算を半年凍結して保守派側の方針を優先し、土台を組み立てたばかりの新しい文化省が混乱する時代があったりした*。 2年後の大統領選でミッテランが再選し、社会党を中心とする革新内閣が復帰してしばらくたった90年代初頭のことだ。文相のジャック・ラングが、「これからはフランスのモードも文化に入れましょう」といったことがあった。鉄の壁の向こうで、現代文化とは何かを咀嚼して現実の支援体制を形作ろうとしていた文化省が、少し間口をを開いて、ファッションもクリエーションだから、モード(ファッション)界も文化の仲間入り、といったときに、なんと、当のモード界の人間が反駁したのを今でも鮮明に覚えている。「モードは文化なんかであるものか。商業そのものですよ」と。文化の本質をフランス全体が鋭利に思考する時代は長かった。同じような時期に日本を見ると、いろんなものが混沌として何でも文化になっていくのが不思議で仕方がなかった。この点で、二つの国の「文化」はまったく正反対の方向を向いて進み続け、広がる溝の中で私自身も引き裂かれていくような思いをさせられたが、こんな思いを抱えているのは私だけだろうか。 90年代に私の個展を企画をしてくれた町のアート・ディレクターは、役人を相手に展覧会を打ちたて、奔走して展覧会予算を獲得してまわることを、「ミリタンティズム」という言葉を用いて表現した。ミリタンティズムとは英語のミリタリーと同類語であることがわかるように、攻勢的に戦って勝ち取ることを意味している。20世紀はこんな風に、固いの壁の向こうとアーティストを結ぶ現代文化のミリタン(戦士)がいてくれたのである。(S.H.) (*1986年、保守派の国民議会議員選挙の選挙公約は、それまでフランスの企業の大半が公社といわれる国営企業であったのを民営化していくことだった。したがって、保守派の勝利で文化省において第一に行ったのは、テレビ局を一局民営化することだった。民放のTF1テレビはこのとき誕生している。)

アクチュアリティ

フランスのTV報道は、以前は日本はおろかアメリカのニュースでさえ少なく、世界への見通しはなかなか利かず、欧州に閉じ込められたような雰囲気さえあったが、現今、毎日の各ニュース内容の50%以上を国外の出来事が占めるようになり、フランス全体が大きく世界へ目を向ける姿勢がうかがわれる。ちなみに、ここ数日の大きなニュースは、アメリカの油田事故にともなう原油汚染、ヨーロッパ連合のギリシャ救済、タイの暴動、中国の万国博、ハイチ地震後の救済、アイスランド火山、アフガニスタン等。 ブルカ (つづき)- 昨日フランスで、顔全体が隠れるるものを公共の場で着用してはいけない、という法案が成立したもよう。法案の内容はル・フィガロが記事にした。「顔全体が隠れる」ものを着用して路上などで見つけられた場合、罰金150ユーロ。また「男性に強制されて顔が隠れるものを着用している女性」が見つかった場合は、罰金1万5千ユーロ、一年の禁固刑が課せられる。後者はブルカのことを指している。 ちなみに、隣国ベルギーでは昨日、国内でのブルカ着用全面禁止法案が、138票中136票という圧倒的多数で下院を通過した。ベルギーのブルカ着用者は100人程度のものだという。 ヨーロッパではじめて。 宗教に関連して、昨日ストラスブールで、キパを着用したユダヤ人を通りがかりの二人の男が刃物でさす事件がおきた。 My opinion: たった100人程度の実践者になぜこうまでして法律を設けなくてはならないのだろうか、という疑問は大多数の疑問でもある。すでにベルギーではオランダ語圏住民とフランス語圏住民との対立で首相が辞任している。国内で芥子粒ほどの少数民族の圧迫はその延長線上か。それではフランスは何なのか。 ギリシャ - ギリシャの経済救済は、ヨーロッパの株価が軒並み下落しポルトガル、スペインへの影響が大きく懸念された段階で、貸付を渋っていたドイツが折れてEUから援助金が出るもよう。ただし、昨日ギリシャは、450億ユーロでは「実は足りない」、と表明。赤字負債額は想像がつかない。 フランス国内 - 先週木曜金曜は、全国的に好天気に恵まれ、北のストラスブールで28度から30度を記録。アイスクリームが爆発的に売れた。あちこちで海水浴も。 このウィークエンドから気温は10度以上下がり、例年以下に。

アーティスト・イン・レジデンスと展覧会

地方での活動で、アーティストはほとんど自分の財布を開くことがない。それぞれバジェットにはバリエーションがあり、またアーティストを受け入れる企画側の条件もそのつど違うので、周辺を考慮に入れながら与えられたグラントのなかで新しい作品を制作していくという形がそこここで、またアーティストのなかにも定着しつつある。現在のアーティスト・イン・レジデンスは、そうした意味でアーティストが丸ごとサイトスペシフィックなヴィジョンの中にはまり込み、作品もその雰囲気の中でしか考えられないものが生まれたりする恰好の道具の一つとなっている。 3年前、フォントネィ・ル・コント市の企画に呼ばれたとき、30代そこそこのアーティストと宿をともにした。彼女はあちこちのアーティスト・イン・レジデンスに受け入れられつつ制作を続けており、田舎の何にもないところにあったレジデンスでは5000ユーロのグラントをほとんど貯金できることもあったといった。 残念ながら、私はアーティスト・イン・レジデンス世代ではない。20世紀の話で恐縮だが、1980年代後半に地方の設備が整い始めて現代アート・センターや協会があちこちでアーティスト・イン・レジデンスを 開設し、造形芸術庁が分厚いカタログまで出版したとき、当然のように私もトライしようと考えた。ところが、応募の問い合わせをすると、電話口で「それは勘違いです」という、すぐには理解不可能の妙な対応をされた。何度か同じような目にあって、ようやく分かった。アーティスト・イン・レジデンスは大半が公募ではなかったのだ。フランスの現代美術の公的な機関の窓口として作られたものであって、その窓口は企画側からしか開かれていない一方通行のものだった。こうした頭越しの、フランスの現代美術への政治性を強く押し出した活動とその閉鎖性は、20世紀いっぱい続いたといえるだろう。 そうこうしているうちに、地方の企画展に招待されるようになった。1988年のロシュフォール市企画が私の最初のものである。ロシュフォールの企画展規模は大きく、町の要所となる建物や公園などを目いっぱい参加させたものだった。現地制作を一週間から10日して、当時は制作費からは程遠いほんのわずかの援助金が出た。アーティストは全員、町から宿をあてがわれ、食事もでた。交通費や作品の運送費もすべて町が面倒を見る。ほかのアーティストとカフェに入ってコーヒーを飲む時くらいしか財布を開かなかった。アルザスから800キロ以上、一人で作品を積載したトラックを走らせてきた女性アーティストもいて感心させられたりもした(自分で車で運んできたアーティストにはガソリン代が出る)が、すでに当時から、作家の移動や生活費、作品の運送にかんする経費は企画者の采配のうちにあったのである。 出来上がった作品をもってくるか、現地制作をするか、作品の提示の仕方は作家それぞれだが、展覧会で地方へ移動してはその土地に留まり、作品を作って地域の住民と交流すること自体、内実レジデンシーとあまりかわりがない。現在の展覧会企画は、たいがい制作費やアシスタントもついて、給料も別個に支給される。私の中ではこうしてアーティスト・イン・レジデンスは地方から招待される企画展とない交ぜになり、今日まで活動を続けていることにいまさらのように思い当たった。 経費はまた別個にフォローされるからグラントをそのまま貯金できたというのが少々うらやましいフォントネィ・ル・コントで出会った若いアーティストには、フランスのアーティスト・イン・レジデンスの氷河時代をこんなふうに説明した。フランス人の彼女がフランスの過去に驚いていたのは言うまでもない。(S.H.)

アクチュアリティ

2010年4月23日現在、話題の社会問題: ブルカ - サルコジ大統領の懸案で、イスラム教の女性が身にまとうブルカやニカブをフランス国内の公共の場での着用を禁止する法案を立てることを内閣が決定した。 ブルカとは、頭からすっぽりかぶる黒や青い幅広の布のことで、体のみならずまったく顔が隠れてしまう。イスラム教のいわば宗教的お仕着せの女性の着衣のことである。顔が隠れて本人かどうかの確認や表情の確認ができないため、いままで学校や職場では着用を禁止されていたが、これを道路やスーパーなどいたるところで禁止しようという法案である。 サルコジ大統領およびフィヨン首相は、「ブルカは宗教的に女性差別を強要するもので、フランス国内で男女の平等を確立するために女性の顔を隠さない法律を建てる」と主張している。しかし、無理やり宗教の伝統を剥ぎ取ることは、即座に宗教や表現の自由を認める人権擁護に反することになるもので、立法をつかさどる最高機関コンセイユ・デタ(国務院)とサルコジ大統領の衝突が予想されている。 与野党を問わず、また国民からもこの懸案への非難は多く、ほかにもっと大きな問題(年金、税制、医療、農業援助、経済恐慌に伴う失業増加など)がいくらもあるのに、どうして今ブルカの全面禁止を法案化しなくてはならないのかと納得がいかない。このまま懸案が国会で議論されると、秋一番の問題となるはずの年金制度の見直しが後回しになる見込みだ。ちなみにブルカを着用している女性は、フランス全土で2000人程度しかいない。 My opinion:フランスにはイスラム教徒が多く、ブルカやニカブのほかに髪の毛が見えないように頭を隠すスカーフだけをかぶる女性が多数を占める。すでに1988年、パリの中学校で教師がスカーフをかぶった女子生徒三人を教室から締め出し、スカーフを取らなければ授業を受けさせないと強要する事件が起きた。この事件はほかの生徒へも悪影響を及ぼし、イスラム教の女子学生のいじめが頻出した。この国では、イスラム教徒の衣装はそれほど「問題」にみえるらしい。 男女平等かはたまた宗教の自由か、というが、お仕着せの衣装を脱いだだけで男女平等が成立してしまうのならそんなに楽なことはない。ブルカやニカブ(目の部分だけがみえる)を着用している女性たちは、かえってこの懸案に大迷惑をしているのだから、イスラム教徒の女性への思いやりなどでもさらさらありえない。フランス国内で明らかに異教とわかるブルカ着用を廃止することは、今までのサルコジ政治の大勢から見れば宗教弾圧にみえて仕方がないが、国務院との衝突が予想されているというからには、すでにサルコジの「男女平等」が理屈として通らないことを物語っているだろう。 男女平等を引き合いに出すのなら、最近、働く女性が妊娠したときに職場でハラスメントを受けたり、無謀に解雇されて退職金すらもらえなかったという事例が2000件ちかくあったとTV報道があった。(最近のテレビ局の傾向であるが、社会の底辺で頻繁に起こる問題でありながら、なかなか解決されない重要な問題をルポルタージュしたり統計をとり発表をしたりして世論に問う番組が増えた。)サルコジ政府はもっと足元の現実を見てものをいわない限り、人気は下降の一途を辿るばかりだろう。