地方での活動で、アーティストはほとんど自分の財布を開くことがない。それぞれバジェットにはバリエーションがあり、またアーティストを受け入れる企画側の条件もそのつど違うので、周辺を考慮に入れながら与えられたグラントのなかで新しい作品を制作していくという形がそこここで、またアーティストのなかにも定着しつつある。現在のアーティスト・イン・レジデンスは、そうした意味でアーティストが丸ごとサイトスペシフィックなヴィジョンの中にはまり込み、作品もその雰囲気の中でしか考えられないものが生まれたりする恰好の道具の一つとなっている。
3年前、フォントネィ・ル・コント市の企画に呼ばれたとき、30代そこそこのアーティストと宿をともにした。彼女はあちこちのアーティスト・イン・レジデンスに受け入れられつつ制作を続けており、田舎の何にもないところにあったレジデンスでは5000ユーロのグラントをほとんど貯金できることもあったといった。
残念ながら、私はアーティスト・イン・レジデンス世代ではない。20世紀の話で恐縮だが、1980年代後半に地方の設備が整い始めて現代アート・センターや協会があちこちでアーティスト・イン・レジデンスを 開設し、造形芸術庁が分厚いカタログまで出版したとき、当然のように私もトライしようと考えた。ところが、応募の問い合わせをすると、電話口で「それは勘違いです」という、すぐには理解不可能の妙な対応をされた。何度か同じような目にあって、ようやく分かった。アーティスト・イン・レジデンスは大半が公募ではなかったのだ。フランスの現代美術の公的な機関の窓口として作られたものであって、その窓口は企画側からしか開かれていない一方通行のものだった。こうした頭越しの、フランスの現代美術への政治性を強く押し出した活動とその閉鎖性は、20世紀いっぱい続いたといえるだろう。
そうこうしているうちに、地方の企画展に招待されるようになった。1988年のロシュフォール市企画が私の最初のものである。ロシュフォールの企画展規模は大きく、町の要所となる建物や公園などを目いっぱい参加させたものだった。現地制作を一週間から10日して、当時は制作費からは程遠いほんのわずかの援助金が出た。アーティストは全員、町から宿をあてがわれ、食事もでた。交通費や作品の運送費もすべて町が面倒を見る。ほかのアーティストとカフェに入ってコーヒーを飲む時くらいしか財布を開かなかった。アルザスから800キロ以上、一人で作品を積載したトラックを走らせてきた女性アーティストもいて感心させられたりもした(自分で車で運んできたアーティストにはガソリン代が出る)が、すでに当時から、作家の移動や生活費、作品の運送にかんする経費は企画者の采配のうちにあったのである。
出来上がった作品をもってくるか、現地制作をするか、作品の提示の仕方は作家それぞれだが、展覧会で地方へ移動してはその土地に留まり、作品を作って地域の住民と交流すること自体、内実レジデンシーとあまりかわりがない。現在の展覧会企画は、たいがい制作費やアシスタントもついて、給料も別個に支給される。私の中ではこうしてアーティスト・イン・レジデンスは地方から招待される企画展とない交ぜになり、今日まで活動を続けていることにいまさらのように思い当たった。
経費はまた別個にフォローされるからグラントをそのまま貯金できたというのが少々うらやましいフォントネィ・ル・コントで出会った若いアーティストには、フランスのアーティスト・イン・レジデンスの氷河時代をこんなふうに説明した。フランス人の彼女がフランスの過去に驚いていたのは言うまでもない。(S.H.)