フランスのアート状況のきのう、きょうをテーマにブログを開設する。
1.フランスの今日のアート、2.フランスの社会と日常、3.私の日常(アーティストの毎日)、という三つを中心に多くの情報を収集しながら私の話をはじめようと考えている。
1983年に渡仏をして今日までフランスで創造活動をしている私は、必然、フランスという社会の日常のなかで仕事をしてきたことになる。毎日ここで生き作家として存在していくことは、この社会の現実や問題に直接ぶつかっていくことでもあったから、フランスの今日のアートを私なりに叙述するにはこれらの三つの事柄が、自然に盛り込まれてくることになると思う。
EC・欧州連合が成立して10年になり、殊にこの5、6年のフランスの社会の動向は劇的に目覚しい。この目を見張る変貌の中で、アートのありかたもどんどん変化を遂げている。その変化はここ30年のフランスの努力ともいえるものだが、成果として見えるようになったのは、EC統合後、世代交代が目に見えて始まった時点であったように思う。
1980年代に、まずは社会党新政府が、ジスカール・デスタン時代に局レベルに格下げされていた文化省を再建して予算を倍増し、現代文化のインフラストラクチャーを全国に建設し始めたが、20年以上経った現今、それら施設のアートディレクターが世代交代をして活動することが「当たり前」のようになり、また文化における地方分権が現代文化振興の概念とともに政治の中にしっかりと根を下ろし始め、全国各地で公共団体やECなどから文化予算を配布されて活動する協会や地方・県・市町村が出現し続けている。中央中心、あるいは専門家だけの現代アートではなくなり、地方レベルであちこちで自立した活動(しかもしばしば高レベルのイベント)が行われているのがはたして夢のようだ。
私が渡仏した当初、誰も「現代アート」などという言葉を知らなかった(言葉が文法的にちゃんと存在していても)フランス国民が、いまや、小学校の校長先生から6歳から11歳までの全学年のワークショップに、「サイト・スペシフィック・インスタレーション」を課題にしてほしいという要請を受けるような時代に変貌した(2010年2月、ドルドーニュ県ビューグ市の小学校でワークショップ、フランス教育省援助)。
大学レベルの講演などにも招待されて学生の前で話をすることもあるが、小学校で、小さい子供に現代アートのはじめの一歩をいう願いに応えてワークショップができることは画期的とも言うべき出来事で、フランスの過去を知っている私にとっては幾段も嬉しい。こうしたアドミニストレーションの柔軟さは、フランスにおいても希少ではあるが、先生たちの熱意がありさえすれば実現できる時代がフランスに到来したことに感慨せずにはいられない。
フランス国民がこうしていろいろな方向から長い時間をかけて咀嚼してきた現代アートを含むフランス現代文化が、見えないところから支障をきたし始めている。いや、見えるところから言えば、すでに2007年、サルコジが大統領に当選したとき、内閣編成で「文化省」が省からはずされる、という噂が飛んで、文化人がだいぶ身構えた。省にとどまるか局レベルに落とされるかの問題は、即時的に予算の問題である。省から格下げされれば予算は大幅削減である。文化省はこのとき幸い、そのままとどまった。昨年あたりから再び地方の芸術活動を支援する協会から不平の声が聞こえ始めているが、どうやらこれは、文化省よりも国がおしきせる支援体制の組織の複雑化によるものらしい。
「協会」とは、フランスでは1901年協会法という法律があり、この法にのっとった協会は国の支援を得られることになっている。80年代に立ち上がった地方の大きな現代アートセンターの群れも、また昔ながらのサロンといわれるパリの公募展がいくつかあるが、それらサロンもみな協会(アソシエーション)を成立させて援助金を獲得し、毎年の企画をまかなっている。その援助ゆえに、協会設立は今もあちこちで行われているのである。
不平の声は昨年仕事をさせてもらったドルドーニュの協会からあがった。公共の援助金は公庫から出るので、出費の際の領収書を含めた多くの資料が引き換えに必要になるが、 今回、資料作成を二重に複雑にさせられた上に、その資料提出先が今までの文化事務局ではなく、農業事務局だというのである。文化事務局がどこへ消えたのかはわからないが、農業事務局が兼任(農業と?)することになり、勝手のわからない事務局から一向にわれわれの書類が動いてくれない、ということだった。農業事務局が協会の資料を再作成するようにいってきたので、私も協会に提出した私の給与や材料費返済にかんする領収書を書き換えさせられた。事務局から資料が動かなければ、出費返済も進まない。協会は赤字を抱えたまま、翌年の企画を始めなければならないことになった。「そんなバカな」と誰もが言う。フランス文化省が再建されたとき、組織拡大に伴って、政府は「文化創造に寄与するために、役人の文化教育を怠らない」という条文を発令した。発令して、現代アートのために新設した造形芸術局のパンフレットに印刷し、オペラ通りの事務所のレセプションに誰もが持って帰られるようにパンフレットを山積みにした。文化を理解して、はじめて文化予算を采配できる、という政府の配慮を皆に知らしめたわけだ。四半世紀も積み上げてきたその道理が、こうして簡単にへし折られた。
鼻先をへし折られてがっかりしているのはドルドーニュの協会に限らない。小さい団体ほど、影響を受けやすくつぶれやすいはずである。先週だったか、地方の一般の人々とじかに接して活動している文化団体がこうした不都合に対してストライキをした。不合理への糾弾は、即実行の国である。
さて一方で、フランスのオーガナイゼーションの規模の振幅は、今までになく大きい。
大物を上げれば、国際ビエンナーレは、エスチュエール(ナント市から河口のサン・ナゼール市まで約60kmにわたる地域で開催)、リヨン・ビエンナーレと、フランスは二つも抱えているし、 地域の中レベルのビエンナーレ、トリエンナーレは数え切れないほどの有様である。地方、県、市町村も、おのおの「文化振興局」を持って機能させており、企画野外展も数多い。
これらの企画は、地方であるがゆえに、また公共団体の企画であるがゆえに、情報がその地域にとどまったきり、中央(パリ)まであがってこなかったり、ほかの地方へ広まらないのがこれまでの常であった。町中が全身全霊でかかりきりの、また知られたアーティストが十二分に力を発揮して仕事をするような大きな展覧会であっても、単に全国紙のジャーナリストがパリから一歩も出ない(出られない)という理由だけで、不問に付せられてしまうことがいかにも多かったのである。フランスが自分で潰してしまう情報は、外からも見えるはずはない。こうしたフランスの情報収集の方法とズタズタともいえる情報網の弱点は、当然のようにフランスの現代創造を外国から過小評価させることになった。
新聞や雑誌などのプレスがセレクティヴなのは仕方がないどころか「当然」だ、という向きもあるだろう。問題は、セレクティヴであれば、何を基準に選択をしているかということだろう。
このブログに載せる記事は、したがって、今までのプレスのあり方をはずれ、フランスがここまでにいたった理由を交えながら、地方の大きな企画の紹介や現代アートの創造の現場を紹介し、私の経験や眼識を通しつつ、グローバルにフランスのすみずみまでその今日を提示していきたいと考えている。(S.H.)