フランスから―環境とアートのブログ

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フランスのアートと動向
elles@centrepompidou

elles@centrepompidou

ポンピドーセンター国立近代美術館 - 2009年春から、女性のアーティストに焦点を当てた収蔵品展が、同センター4Fで行われている。題して、elles@centrepompidou。 芸術の中の女性についての疑問や問題をとりあげ、女性アーティストのひとつの歴史を仮説として導き出そうとするものである。作品点数は350点、作家の数、150人。女性作家が行ってきたイベントの歴史、大きな国際展に女性作家が取り上げられた歴史や受賞した年、ドイツのドクメンタではじめて女性と男性の作家の数が50%50%となった年など、あらゆる歴史が要約されている。展覧会は、2011年2月まで。

イベント

Champs-Elysées / Nature Capitale – 16万2千の植物と600本の木が持ち込まれ、シャンゼリゼ通りが巨大な植物公園に変貌した。普段は車が通る大通りを、凱旋門からコンコルド広場まで交通遮断し、石畳の上に多種の植物や羊や牛などの動物を配置して、現在作られている農作物を展示してフランスの豊かさをパリの街のど真ん中で披露しようという試み。このウィークエンド、月曜のペンテコステ休日も手伝って、約80万人の人が押し寄せ大成功。 「作品」の構想は、アーティストのガッド・ヴェイユ(Gad Weil、町の中でのイベントが主な仕事)で、農業経営者のアソシエーション、「若い農業経営者協会 Association des jeunes agriculteurs」とコラボレーションして実現した。 開催は、2010年、5月22日から24日の夜まで。シャンゼリゼに持ち込まれた植物は買うことができ、ブティックもあちこちに。

レ・グラン・トラボー (1)

それにしても大工事だった。歴史上にも、「過去に匹敵するようなものは見当たらず、また未来もおそらくなかなか見ないような」とは、ジャック・ラングの第一期文相時代の大臣室長だったジャック・サロワの表現である。フランスの変貌を歴史的にみると、おそらく19世紀のオスマン男爵のパリ都市改造計画が大きなものとして目立っているが、1980年代のそれは都市改造という言葉だけに還元するようなものではなく、それをさらに大きく上回る何かが胎動していて、まさしく前代未聞の時代であった。時間がたったこんにち、その成果や失敗やらを含めて「今」を見極めるために振り返ってみる必要を感じている。 1981年に始まった《レ・グラン・トラボー》は、「文化」の大工事であったことをもういちど明らかにしておかなければならない。ほんとうの建設工事の始まりだったから、大工事をそのまま訳して《レ・グラン・トラボー》とよんだ。省内では建設現場そのものだから「シャンティエ(工事現場)」とよんだらしい。フランソワ・ミッテラン大統領が音楽、文学、現代芸術、科学技術などの文化のあらゆる分野において最も活発にして優秀な活動を実現する現場となる建物を建設することを決定して開始した大工事のことである。 国のすみずみまで、そしてできるだけ多くのフランス人にいかなる国の文化財産へも、またいかなる形態の現代芸術の誕生やその変遷へも自由にアクセスを可能にしてやりたいという念願に応えて(これは1959年、アンドレ・マルローが文化省の第一の目的として条例化した課題)、この工事の中には、ルーブル美術館の再建、いまだインスティテューションが行き届かない地域へ文化施設を敷設することも組み込まれたのはいうまでもない。 1989年のフランス革命二百年記念祭にあわせていくつかの大きな新しい文化施設の開館予定を、当時の文相ジャック・ラングがこう説明している。 「1989年7月14日は、ミッテラン政権時代の大きなポイントとなります。グラン・トラボーのうち重要なものが完成し、首都の文化における地理構造が明解なものになります。西は新都市ラ・デファンスの開幕、東はバスティーユ・国立オペラ開館、中央はルーブル美術館のピラミッド完成、そして北は科学技術館ビレットができるわけですから」。 ルーブル美術館の大工事《ル・グラン・ルーブル》は完成に約20年かかったという。地下のむかしのルーブルの発掘に始まり、 マルローが夢見たように、財務省に撤去してもらいルーブル宮を丸ごと美術館にした。財務省にどいてもらうからには財務省の入る新しい建物が要る。したがってベルシーの用地に新しい財務省を建設することをきめて実行した。 収蔵作品は、ルーブルが1848年の最後の王政までをカバーすることが決まっていたから、この後の時代の美術にかんして、1970年代に工事をストップされていたオルセー駅の改造計画を呼び覚ました。ついで、ジュー・ド・ポーム印象派美術館から19世紀の作品がここに移され、19世紀美術館と命名される。空になったジュー・ド・ポームはというと、現代アートの現場が少ないという意見があったからか、国立現代アートセンターに改造されて名前も改名し、現代作家の活動を企画することになった。 ひとつ何かを動かすとチェスのようにほかも動いていかなければならない。建物を動かすその裏側で、大きな文化の大編成が逐次行われていたのは、すでに言及したところである。 先のジャック・サロワは、「インスティテューションを敷衍するだけでは文化の地方分権にはまったく不足だ」と述べている。各分野の中心となる建物を建設しておのおのの凝縮した制度を確立することは、国民の目をいっせいに文化にひきつけるひとつの手段でありまた始まりでしかないことを、彼らが十分に理解していたことを指す一文だ。パリ中が工事で地響きを立てていたとき、「大きなシャンティエに隠れて、ほんとうに進めていかなければならなかった地方への機構作りは、大本の中央の機構作りが同時に行われていたこともあり、なかなかマネージメントうまくいかず葛藤がありすぎた」とも述べている。大工事に隠れたほんとうの大事業が、サロワの文章に「Combat 戦い」やら「Militer 闘争する」やらといった攻撃的な言葉が同じページに3度も4度もでてくるように、彼らに底通する日々の執着だった。 文化省のトップにいた人たちにとっても、文化を再建することは「戦い」そのものだったのだ。 予算を勝ち取って展覧会企画をしてくれる文化のミリタンの話をしたが、こうしてみると、この時代は文化を担う人々に「戦う」姿勢が上から下まで充満していた時代だったのだなあ。

れきしの点と線 - デコンサントラシオンと文化

1969年、文化の地方分権化の始まり。 La Déconcentration – ラ・デコンサントラシオン: 文化省の中央集権的政治および事務的構造を、地域に《地域文化振興局- Directions régionales des affaires culturelles/ DRAC》を作ることによって、文化行政が地域へ出現し発展するよう発想されたもので、アンドレ・マルローによって1969年、地域3箇所に初めて地域文化振興局がおかれた。 この文化省のブランチDRACの存在によって、文化省は地域へアンテナを伸ばすことができ、かつ地域議会の文化予算に対応する予算の注入への配慮などの、中央と地域のバランスがとれていくことが期待された。 フランス国内は22の地域に分割されている。それを考えると、マルロー時代、3箇所のDRAC設置は、まったくのはじめの一歩というべき象徴的な出来事というだけにとどまり、全国に文化省の力を敷衍するまでにはいたらなかった。 1976年(ヴァレリー・ジスカール=デスタン大統領、ジャック・シラク首相)、Françoise Giroud(フランソワーズ・ジルー)が文化付閣外大臣(文化は省から閣外の局レベルに格下げされ、大臣は閣外大臣と呼ばれる)となり、短い任期中、地域文化振興局DRACの設置を制度化する条例を制定した。 ジスカール=デスタンはヨーロッパ共同体へ傾倒し、シラクはデコンサントラシオンを理由に、文化省を閣外に落としたという。財政の地方分散で文化も地域の采配に任せたという話だが、地域は自立して活動を行うまでにはいたらなかった。フランソワーズ・ジルーはこの政権下で女性の解放、平等化などへ尽力し(1974-76)、文化への思い入れのある政治家の希少なこの時期の政府の中で、文化の夢に「固執して」DRACの条例化をすすめた(1976-77)という。 La Décentralisation – ラ・デサントラリザシオン: 1982年83年(ミッテラン大統領、モロワ首相)制定の地方分権法。中央の権威や能力を地方へ分散させ、地方共同体との平衡を図る法律。この法律は政治司法、産業その他全般にわたるもので、文化も当然ここに含まれる。文化において80年代は、政府の積極策と地方共同体の熱意が功を奏し意思疎通がうまくいっていた時代であった。また文化省から地域へ配分される予算の増加とともに、DRACの体制が強化された。 1992年2月6日および7月1日、行政管区におけるデサントラリザシオン憲章設立。地方へ分散した権威に活動の権限を優先して与えることを謳ったもので、文化もこの優先権の逆転により、大いに性格が再検討され塗り替えらることになった。 したがって文化においてラング文相時代は、中央の文化政策を地域で行い地方共同体の世話をするエキスパートの役を担うというDRACの機構が実質的に形作られた時代ということができる。 (Extraits de: “L’Etat et la culture en France au xxe siècle”  Philippe Poirrier, “Le lancement de la déconcentration” André-Hubert Mesnard)

アーティストインレジデンス

artist in residence – Association Fées d’hiver フェディヴェール協会企画レジデンシー. Les dossiers de candidatures sont à déposer pour le 30 juin de chaque année afin de planifier les résidences pour la saison à venir à l’adresse postale de l’association. グラント、3000ユーロ。 アトリエ、宿泊設備完備。 毎年応募期限は、6月30日。 インターナショナル・レジデンシー。 Fées d’hiver Champ Rond, F–05200 Crévoux par courriel : contact@feesdhiver.fr 応募内容ページへ:http://www.feesdhiver.fr/candidats.htm

アーティストインレジデンス

artist in residence - Parc Saint Léger – Centre d’art contemporain, パルク・サン・レジェ現代アートセンター企画レジデンシー、 -Mise à disposition d’un appartement privatif et d’un atelier sur le site même du Centre d’art. Bourse de résidence de 3000 euros. Date de dépôt: le 11 juin 2010. アトリエ、宿舎(アパート)完備。3ヶ月のレジデンシー。グラント3000ユーロ。交通費若干支給。 応募締め切り、2010年6月11日。 Les candidatures devront comporter : -Un dossier papier ou CD du travail de l’artiste comportant des...

現代文化、れきしの点と線 - 国の役割

1952年、『沈黙の声』に出版されたアンドレ・マルロー/ André Marlauxのインタビューから。インタビュアー 、フランク・エルガー/ Frank Elgar。 E: ミュージアム(美術館・博物館)が発展することは望ましいですか?かえって、危険なのではないですか? ミュージアムは、芸術の退廃の兆候で、私たちの創造する力が衰退していることをさししめしているのではないでしょうか? 文明の偉大な時代には、 新しい形を創り出すことのほうが先で、過去のものの保存にはあまり配慮をしません。文化を一般にひろめることは、芸術を喜びとして感じたリ、傑作を理解したりする人間の才能の増大に結びつくことにはまったくならない、とはお思いになりませんか? M: 「偉大な時代」とは、何をさしておっしゃっているのでしょう?隆盛の時代のことでしょうね。卓越した時代が歴史を構成するとすれば、当然ミュージアムは可避できません。ミュージアムは墓場などではなく、激しい問いかけです。・・・。私たちの芸術はミュージアムから生まれ、ある意味でその論理によって発展しています。ミュージアムのおかげで過去の形を知ることができるのであって、今の私たちが新しい創造をすることとはまったく抵触するものではありません。 ・・・・・ E: さて、民主議会制度において、国の芸術的な役割とはいったいどうあらなければならないかという問題にアプローチしましょう。 こうした政体の中で、正当で理性的かつ洞察力を備えた国民の芸術生活のための執行部をつくることが可能だとお思いになりますか? もし可能だとお考えでしたら、いったいどのような条件のなかで、 そうした政策が行われなければならないのでしょうか? M: いやはや!国は芸術に、いっさい方向付けをしたりしません! 芸術に方向付けをする、とすれば、それは芸術ではなくて芸術に名を借りたほかのものになってしまいます。たとえばロシアに見たように、芸術はプロパガンダや国民を扇動するのに利用されました。・・・・。 芸術を芸術として指導する、ということをいいたいならば、それはまったく意味を成しません。現代芸術は芸術の執行部など必要としていませんから。指導というのは美術学校の段階のものでしかありません。 E: それでも、国が必要とされる場合がありますよね?もし必要とされるなら、どういった場合ですか? M: 国に負わされた使命は、美術館と展覧会、そしてコミッションです。・・・・。 行政的な問題を解く機構が薄っぺらすぎ、また支援体制も弱い。国は芸術を行っている人たちにみあった力をつけたものでなければなりません。 要約するならば、国は芸術に方向付けをしたり芸術を指導したりするためにあるのではなく、芸術に仕えるために存在します。 ・・・・・ E: この計画の主軸となる思想を概観すると、国に対するあなたの不信感は、あなたの人間への信頼感と同じくらい大きいように見受けられます。 M: 国は、現実に芸術に触れることのできるフランス人にむけて、できるだけ多くの人が芸術に触れられるよう努力をしなければなりません。 私たちは注文を受けて仕事をするようなクリエーターでもアマチュアでもありませんが、芸術を真の表現のなかで観ることができなければ、それ以下の人間になってしまいます。民主主義とは、ここでは、より大多数の人間がより広範囲の芸術作品を見ることができる政体のことなのです。 このインタビューが国と芸術の問題をさいしょに明解にしたもので、将来の政策の下書きとなった。

ル・グラン・ルーブル・プロジェクトの発端、マルローの一言

1952年、『沈黙の声』に出版されたアンドレ・マルロー/ André Marlauxのインタビューから。インタビュアー 、フランク・エルガー/ Frank Elgar。マルローが文化大臣になる7年前。 E: もし、美術大臣になられるとして、真っ先に実行に移されたいことは何ですか? M: まず、私は大臣候補ではありませんし、また私でなくても誰でもできることでしょうが、 ルーブル美術館を世界一の美術館に仕立て上げることでしょう。現在、財務省が使っている建物(リシュリュー翼)を美術館のために回収することです。それから、地方に散らばっている傑作を集合させるのです。・・・ 1981年9月26日、フランソワ・ミッテラン大統領によって、《ル・グラン・ルーブル》プロジェクトが発令された。リシュリュー翼の財務省をほかの敷地に移し、ルーブル全体を美術館に改造する大計画の始まりとなる。 セーヌ川を隔ててルーブルの対岸(つまり今のオルセー美術館がある辺り)に位置していた財務省は、1871年パリ・コミューンで焼き討ちにあい、リシュリュー翼へ入居。110年ぶりのルーブルからの撤去となった。新財務省はベルシーに建設されている。
Céleste Boursier-Mougenot

Céleste Boursier-Mougenot

話題のアーティスト紹介: Céleste Boursier-Mougenot - セレスト・ブルシエ=ムジュノ。 1961年、ニース生まれ、セト在住。元は音楽家で演劇の作曲をしていたが、1996年からいろいろ取り込んで音のインスタレーションを始めた。5月23日までロンドン、バービカン・センター、アートギャラリーで展覧会。 Barbican Centre Silk Street London EC2Y 8DS http://www.barbican.org.uk

ネットワーク

文化省の造形芸術庁は、アーティストの活動サーキットを多様化することにも尽力した。 もちろん画廊システムが存在し、あちこち公の展示場もあり、アーティストが発表活動ができなかったわけではない。しかし、画廊はマーケット中心に動いているから、作品の選択も新しいアーティストの採用も、利益優先で行うのが常である。 したがって、ほんとうは多様なはずのアートはいってみれば経済にふるいにかけられて極限され、一般の目に触れるアートは流行一辺倒に陥りがちだった。この意味で、マーケットも負けずに閉鎖的である。 そうした商業中心の芸術市場の間口の狭さに注目した文化省は、まったくマーケット基準から離れ、新しく生まれるアートがそれなりに形になり、きちんと人の目に触れられる活動の現場をつくることに力を入れ始めた。新しい世代のアーティストの育成を目指して、文化省がもうひとつの活動様式を提供したといえるだろう。 地方には80年代、すでにいくつか大きなセンターが現代アートの活動をそれなりに行っていたが、文化省が声をかけて彼らの活動に援助金を回すしくみを敷設した。もとは地域のバックアップのものもあり、また町のものもあり、アソシエーションのものもあったが、ほとんどがしっかりした規模の活動をすぐさま発展させられるような施設の整った現代アートセンターが選ばれ、「文化省つきの現代アートセンター」という総称をもってネットワークを形成したのが80年代後半の話である。これらの現代アートセンターで受け入れるアーティストは、マーケットの外で自由に創造活動するアーティストでなければならず、そのアートはそこで今新しく生まれるアートでなければならなかった。 ばらばらだった現代アートの現場は、こうしてまとめられていき、そのことによって現代アートセンター自身も使命感を増幅していった。文化省つき現代アートセンターの連携は90年代にはりるとまたたくまに、ドイツやイタリアの現代アートセンターまでのび、ヨーロッパのアーティストの巡回やイクスチェンジの場ともなり、ようするにフランスの現代アーティストをヨーロッパに送りだす窓口の役割を担うまでになったわけである。(S.H.) CNAP-国立造形芸術センター登録、全国87箇所の現代アートセンター、住所録ページ Annuaire de 87 centres d’art contemporain en France (CNAP)

現代アートセンター

パリ近郊: Domaine départemental de Chamarande, Centre d’art contemporain - エソンヌ県立シャマランド現代アートセンター。2000年現代アートセンターとして開設。展覧会、モニュメント制作企画を行う。パリ南方、40km。RER郊外線Cラインで、シャマランド下車、200m。電車は30分おき。 RER C : direction “Saint-Martin d’Etampes”, station Chamarande à 200 mètres de l’entrée du Domaine. Fréquence : toutes les 30 minutes. Domaine départemental de Chamarande, Centre d’art contemporain 38, rue du Cdt Arnoux 91730 Chamarande Tél : +33 (0) 1 60 82 52 01 Mail: chamarande@essonne.fr http://www.essonne.fr/culture…(エソンヌ県のサイトから)

アーティストインレジデンス、フランス全土ガイド

ガイドブック - 196のアーティスト・イン・レジデンス: CNAP-国立造形芸術センターが、フランス全国のアーティスト・イン・レジデンス・ガイドを発行している。アルファベット順に、196箇所の現代アート中心のレジデンシー・オファーが全貌できる。ほとんどの場合、宿泊設備、グラントがついて、一ヶ月から6ヶ月の範囲のものが多い。企画によってはテーマを設けテーマに副ったプロジェクトを採用。国際アーティストむけ、ヨーロッパのアーティスト向け、あるいは地域のアーティスト向けとさまざまで、地域一般との交流の機会をつくり、展覧会やシンポジウム、アーティストのトークなどが設けられている。 196 résidences en France: Dans le cadre de ses missions de soutien à la création et d’information en direction des professionnels, le Centre national des arts plastiques publie 196 résidences en France, un guide pratique consacré aux résidences proposées aux artistes, aux commissaires d’exposition, aux critiques, aux théoriciens et aux historiens d’art. Il est...

現代アート・センター

パリ近郊: Parc culturel de Rentilly – ランティイ文化公園。マルヌとゴンドワール都市共同体、ビュシー・サン・マルタン市(パリの東)、RER郊外線Aラインでトルシー下車、徒歩20分。シャトー、公園、アトリエ、現代アートセンター、展覧会、アーティスト・イン・レジデンス(ヴィジュアルアート、文学、音楽)があり、イベント豊富。 RER A, sortie Torcy, puis à pied (20 minutes) Communauté d’agglomération de Marne et Gondoire Parc culturel de Rentilly Domaine de Rentilly, 1 rue de l’étang 77600 Bussy-Saint-Martin http://www.parcculturelrentilly.fr

現代文化、れきしの点と線 - 芸術1%

芸術1%(アーティスティック1%)とは、公共建造物の建築あるいは改築改造などが行われる場合、その建設バジェットで環境に見合った美術作品を制作あるいは買い上げることを取り決めた政令のことをさしている。 歴史:フランスでは1951年からこの制度が出現しているが、80年代の新文化省は1%アーティスティックを、文化省が決めたインスティテュートとはまた別の「アートと一般が接する」プロジェクトであり、「アーティストの生活と税制ステータスを助けるシステム」と改めて明確にし、まずは造形芸術庁(DAP: Délégation aux arts plastiques)がこれを采配した。ちなみに造形芸術庁は、1.芸術創造の支援システム、2.現代芸術を将来の国の財産として買い上げていく、3.あらゆる方向の芸術が生まれる可能性を増やすための活動サーキットの創造と増幅、のおおよそ三つの大柱を中心に推進し、80年代半ば国立造形芸術センター(CNAP: Centre national des arts plastiques)を作り、造形芸術庁と連携したかたちでその活動を現実へ向けて立体化している。 1990年代は1993年の経済恐慌の痛手に伴い建設計画も激減し、数少なかった1%プロジェクトはいよいよ水面下にもぐりほとんど公募が消滅した感がいなめなかった。 21世紀にはいり、ようやく2002年、シラク(保守)政権下ジョスパン内閣(社会党革新派中心、1986年とは逆のあらたな保革共存時代)が改めて1%に関する政令を見直した。このとき、1%の管理はDRAC(Direction régionale des affaires culturelles 地域文化振興局-各地域に設置された文化省管轄の文化活動支援局)に渡されている。2002年のこの政令は2005年2月4日、ラファラン内閣時(文相はジャン=ジャック・アヤゴン)に改定され、1%アーティスティックを義務制度として再発令した。2006年8月16日に文化省が実際の手続きを全国に通達して今日に至っている。 義務化した1%アーティスティックは2006年以降、当然のことながらプロジェクトの量を増やしつつある。公共建造物は国のみならず、地域(Régionと呼ばれる数県をまとめた地域のことで、関東地方や関西地方のような分割に当たる)、県、市町村が所有するものが多い。たとえばフランスの公立学校の管轄を例に挙げると、高等学校は地域、中学校は県、小学校・幼稚園は町が管理し、新設校の建造や旧校舎の再建はそれぞれの管理者が行うきまりとなっている。そうした教育施設の新築再建築に伴い発生する地方の1%を、当初は文化省の地域担当官であるDRACが引き受けた。しかし今日は、文化省にたよらず、地域議会や県議会が独自に1%プロジェクトを采配するところが増加しており、そうした公共団体は直接一般へ公募でアートプロジェクトを募っている。 地方の自立傾向は、こうした1%プロジェクトのアート選びにも見受けられる。これは政府が文化のみならず、政治その他の体系を分権化(Décentralisation, Déconcentration)しようとして長年政策を進めた賜物のひとつといえるだろう。 2008年あたりから、1%アーティスティック・プロジェクトのバジェット増加が少しずつはじまった。物価高騰によるところが大きい。