フランスから―環境とアートのブログ

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フランス文化のきのう、きょう

La bataille de tchernobyl チェルノブイリの戦い(福島に捧げる)

La bataille de tchernobyl: Un documentaire réalisé par Thomas Johnson (94’) – Année : 2006 「ラ・バタイユ・ド・チェルノビル…チェルノブイリの戦い」 - 1時間34分ドキュメンタリー・TVフィルム、トーマス・ジョンソン監修、2006年。 注記: 以下の文章は、数分前に見た「チェルノブイリの戦い」のなかで気にかかる点をいくつか抜粋したものである。2011年は、チェルノブイリ原発事故から25周年。またこのフィルムの制作された2006年は事故から20年の区切りとなる年で、メルトアウトの危機にたいするゴルバチョフの戦いも含め、当時を振り返りまた現在を検証するフィルムとして出来上がっている。福島第一原発事故のあと、このルポルタージュはフランスで何度か再放送され、われわれの将来に向かって重要な示唆を提供し続けている。…

アクチュアリティ、消えたジョコンド-盗難100周年

「消えた女、ジョコンド」、盗難百周年 -1911年8月21日、ルーブル美術館に模写をしにきた絵描きルイ・ベルーが、レオナルド・ダ・ビンチの作品「モナ・リザ」がなくなっていることに気がつき、大騒ぎになった。最初は誰かの冗談でルーブルのどこかに隠されたものと考えられあちこち物置などを捜索したがどこにもなく、また第一次世界大戦前夜のことでもあり何らかの政治的工作が行われたものという憶測までが飛んだが、当時ルーブルで仕事をしていた職人全員を召還して現場の指紋照合を行ったところ、盗難前日、「モナ・リザ」の額縁のガラスを取り替えたイタリア人ガラス職人であるビンチェンド・ペルージアが出頭しなかった。この男こそ、「モナ・リザ」を盗んだ張本人で、当時のパリのアパートに持ち帰り2年間隠し持っていたという。1913年フィレンツェで「モナ・リザ」が見つかり、同年12月に作品はルーブル美術館へ無事帰還する。ペルージアは禁固刑一年。「モナ・リザ」を祖国に連れ戻そうとした、もよう。 JMJ、カトリック世界青年大会、150万人集結 - 8月16日から21日まで開かれたカトリック世界青年大会は、マドリッドの飛行場に150万から200万人の熱狂的な若者を集めて大盛会を記録した。マドリッドは大会最終日の今日、41度の猛暑。サッカー場48個分の広大な飛行場を一部の隙もなく埋め尽くした若者たちは、ベネディクトス16世教皇からの聖体拝礼を全員が受けることはできないにしても、酷暑、また昨夜は雨の中で動かず熱心に教皇の演説に聞き入り、マドリッド大会に参加したことに大満足気。 タブレットPC、コンピュータを超える - 米コンピュータメーカーのパッカードが生産から手を引くことを明らかにして、時代の転換が到来したことを告げた。タブレットPCがコンピュータの販売速度を越して、タブレットPC時代へ。30年前に走り出したコンピュータがこれで消えるわけではないが、コンピュータ時代のピークが過ぎつつあることは確か。テクノロジーの世代交代の波は足早に世界を駆け巡っている。 犯罪激増に苦しむマルセイユ - 一日平均の暴力事件数26件、2年間で殺人事件50件。2010年の強盗事件数800件で、例年の40%増。マルセイユ市は、「お年寄りの方は事件にあわないよう、夕方5時以降は外出を控えるように」と呼びかけている。マルセイユ市警は、「警察官が300人から400人不足している」。内務大臣が100人の国家:警察官の増員を決めたが、「それではまったく足りない」、というのが現場の主張だ。(フランス2TV)

Venise/ Venezia/ ベニス

Venise/ Venezia/ ベニス 今日のPHOTOS: Photos by Shigeko Hirakawa Copyright:S.H.
Vincennes ヴァンセンヌ

Vincennes ヴァンセンヌ

  Château de Vincennes ヴァンセンヌ城 今日のPHOTOS: 2011年7月31日。 Photos by Shigeko Hirakawa Copyright: S.H.

Melle、La Rochelle付近

  メルMelle、ラ・ロシェルLa Rochelle付近 今日のPHOTOS: Copyright Shigeko Hirakawa

Pontivy ポンティヴィー(ブルターニュ)

Pontivy ポンティヴィー(ブルターニュ) 今日のPHOTOS: Photos by Shigeko Hirakawa, May 2011 Copyright Shigeko Hirakawa

Mulhouse、アルザス地方ミュルーズ、May 2011

今日のPHOTOS: Mulhouse アルザス地方ミュルーズ付近の山々と湖、2011年5月。 Photos by Shigeko Hirakawa Copyright: Shigeko Hirakawa

フランス2TV特番「原子力、すべてを変える災害」

France 2 TV企画 COMPLEMENT D’ENQUETE ” Nucléaire – la catastrophe qui change tout” (ビデオ)、フランス2TV番組、《コンプレマン・ダンケート、「原子力、すべてを変える災害」》、長さ1時間55分、2011年4月18日放送。ビデオ掲載(下) 注記: フランス2テレビ企画、《コンプレマン・ダンケート(「調査の補完」の意)》は、社会問題、政治問題、事件などの深奥を調査し公表することを目的に制作されているフランスのテレビ・ルポルタージュで、敏腕ジャーナリストとして知られるBenoit Duquesne(ブノワ・デュケンヌ)が現場の責任者のインタビューや取材映像をまとめ、問題の中心に迫る司会をする。90分番組。カナダのケベック(フランス語圏)でも再放送される。特番「原子力、すべてを変える災害」は1時間55分といつもより長く、フランス国民の関心の高さを繁栄。ちなみに、原発問題に関するこの番組は、現在フランス2TV のビデオの再生回数でトップにランクされている。…

Versailles – ベルサイユ 2011.4.30.S.H.

  今日のPhotos: Photos by Shigeko Hirakawa, April 30, 2011 in Versailles  Copyright. Shigeko Hirakawa

ランド県、暴風雨クラウスの傷跡

海岸松の大被害、その影響 2009年1月24日に暴風雨「クラウス」がフランス南部の大西洋側を襲った。南西部のランド県はヨーロッパ一の大きさを誇る海岸松の植林による林業が大きな産業として知られている。この日、時速180kmの大風を吹かせた暴風雨クラウスは25万ヘクタールの森林地帯に被害を出し、なかでも海岸松に大きな打撃を与えた。一日で破壊された海岸松は約4000万立方メートルにもおよび、この数字はランド県が産出する松材の5年分にあたるという。暴風雨から2年経つ2011年の今も、森林の復活は遅々として進まず、公共用地に関する植林のための150万ユーロの援助金が予定されているだけで、災害を受けた私有地については何ら見込まれておらず破産状態の林業農家が少なくない。(TF1 TV) ランド県は、湿地帯で人間も住めず栽培もできなかった土地に、ポンプのように地中の水を吸い上げる海岸松を植えることで、地表を乾かし、人を住まわせ、野菜栽培を始め、また松のおかげでフランス最大の林業が発達させることができたという逸話のとおり、150年来、海岸松の恩恵を受けて人間の生活を成り立たせてきた土地である。ランド県の松の大災害は、林業に携わる3万4千人の人々の経済のみならず、土地のエコシステムへ大きく影響をしはじめる危険性を孕んでいるのだ。(S.H.) Tempête Klaus résumé en images chocs [news] Tf1 260109 Vidéo LePost sélectionnée dans Actualité

2011年、年始の数字

2010年、世界の数字: 中国地震、アイチ地震、ロシア大火など、2010年に起きた世界的天災の件数、950件。例年より30%増加。自然の猛威による災害で29万5千人が死亡。 世界一悲観的な国民、フランス人: BVA Opinion(市場・世論調査インスティテュート)の世論調査で、フランス人が社会に対する悲観度で世界一、と発表した。失業問題は解消しないと思う人は国民の81%(前年度より2%増)を占め、福祉後退を悲観する人73%(7%増)、政治に悲観的な人53%(7%増)、物価高騰、などなど。総合的に61%のフランス人(10人に6人)が将来に悲観的という調査結果が出ている。フランスは、イギリスの53%、スペインの41%を大きく上回って、悲観度で世界一。ちなみに世界レベルは28%。 政府が公表したくない数字: 2010年12月大晦日は大過のないよう、フランスは5万4千人の警察や機動隊をくりだして全国警備に当たった。年末年始、またキャトルズジュイエなどに「恒例」の壊し屋による車の放火騒ぎを防ぐ目的がふくまれている。ところが今年は、三が日を過ぎてもフランスのメディアはどこも大晦日に放火された車の台数を発表していない。原因の一つは、オルトフー内務大臣が「数字をあげつらって毎年競争のように数字を発表する必要はない」として公表しないようにしたからであるが、大臣の態度は却って事実隠蔽の疑惑を呼び、大臣を糾弾する向きすらでてきている。 フランスのTVのジャーナリストたちは判で押すように「大晦日は無事過ぎた」と同じ表現をしているのだが、実際は一夜で501人が逮捕され、2009年大晦日より100人多い数字を記録。また、パリとパリ近郊の4県で合計120台の車が燃やされている(前年度2009年は198台)。一方、ストラスブールの郊外では車の放火に関し、「いつもと同じひどさ」と地方警察が発表。 フランス内務省による記録では、2009年12月31日から2010年1月1日にかけて一夜で放火され破壊された車の台数は、全国で1137台にものぼっている。4日前の大晦日はどれだけの車が破壊されたのか、この数字は1月中にほかの犯罪と混ぜて犯罪統計のなかで発表される予定だという。(フランス・アンフォ・ラジオ)

Best Wishes 2011

現代文化と国について

数日前にこのブログで、フランスは外国人に永住権も与えないし、法的に職業規制があったりで思った職業にも就けない、という話をした。 「私たちは芸術家でよかったわね。芸術家にはだれだって自由になれるのだから」と同じ建物に住むスエーデン人が言ったことがあった。フランスの外国人は自由に職業を選ぶことができないという硬派のフランス社会についてはなしをしている最中に飛び出した意見だったが、このときの私はうーんとうなったばかりでうまい返事は出てこなかった。国から何の制限もない芸術家職は、そんなフランス社会の厳しいプロテクショニズムとは関係がない、とこのスエーデン人は言いたかったらしい。しかし、本当にそうだろうか。周りの人々が汲々として決められた制限のなかで生きているのに、そうした色に染められた社会の見識から免れて芸術家だけが自由を享受できる、というのはむしのいいはなしではないだろうか。 20年近く前フランスは、現代文化において「政府メセナ」のモデルとして日本でも盛んに紹介された。私企業のメセナが多く立ち上がったアメリカや日本と違い、フランスは政府が現代文化を援助する大きな体制を作り上げたからだ。資本主義の米日が「民」ならば、社会主義よりのフランスは「官」、として国のあり方を対立させてみてもいいかもしれない。フランスの企業はその大多数が国が株主で「公社」であったから、もともと私企業のメセナが育つ土壌も当時は僅少だった。そうした国の経済のありかた同様、現代文化もフランスは政府が指揮を取って政治のうえで采配しようとし、1981年、フランス文化省を復活させた。 この文化省に、現代アートを支援する「造形芸術庁」が発足して現代芸術のメセナ的な仕事を始めることになるのである。その仕事は実に緊密で、まずは「現代アート」の定義からスタートする。国の言う現代アートとは、狭義の流行のアートのことを指すのではなく、現代生きて仕事をしている作家が生み出すアートすべてを指す。したがって、すべての生きて仕事をしているアーティストとそのアートを対象にしている。生きているかぎり芸術家は、他の職業者同様、税金を払わなければならず社会保障も受けなければならない。そうした社会の一員としての義務が果たせるように国がメセナ的役割をもってサポートし、実利的な仕事を創造してアーティストにリンクをする役割を自分に課した。(公団住宅の枠内で芸術家用アトリエ建設、作品買い上げと作品公庫の設置、芸術活動への援助金制度、カタログ援助、展覧会援助、コマーシャルギャラリーとは質の異なるアートの発表を目的とした展覧会施設開設と相互リンク、公共建造物に作品を入れる法律〈1%〉、情報センターなどの芸術活動に必要なネットワークと施設を設ける、等々。) 国の現代芸術政策は、なかば芸術家の生活に結びついた福祉的な性質を大きく含みつつ、芸術育成をめざした組織的な構造が徐々にまた全国レベルで作り上げられていったのだ。 さて、現代芸術のリーダーがフランスの「国」であることは、何を意味するだろうか。現代から将来に向けて創られる現代文化も、ここでは政治の一環となっているわけだから、文化再興の理論の底流には、フランスのプロテクショニズムが大いに働いている。 1960年に初めてできた文化省は、初の文化大臣アンドレ・マルローの省内スタッフによってその真意が明らかにされている。「将来、世界が望むようにフランスの精神的尊厳を回復し、文化の(世界における)指導的立場をとりもどすことを念頭に、(戦後退廃しておざなりにされ、すっかり他の国に追い越されてしまった)フランス文化を建て直す」ことを大目的とすると。そうして1981年の文化省の再興は、マルローの意思をそっくり引き継ぐ作業の実現から始まっていることを指摘しなくてはならないだろう。 外から来た文化人たちは私を含め、フランスから跳ね返されるような勢いをしばしば感ぜずにはいられなかったのは、それだけ当時、この国の現代文化政策がエネルギーを持っていたことを意味するのだと思う。このフランスの勢いのおかげで、文化という大きなテーマについて、フランスの長い間の論議を認識する機会を何度も得ることができた。また、自分がいるフランスからフランスの思想をもってはじき出されることで、自分はそれではいったいどの文化に向かって作家活動をしているのだろうか、という疑問につきまとわれるようになってしまっている。 フランスに来なければ、この国が長いあいだ熟成してきた「文化」への論理的アプローチのなかに浸って、文化とは何かという大命題に接する機会はおそらくそうそう無かっただろうから、フランスには大いに感謝をしているが、一方で、この国で活動を始めてすでに27年たったいまも、自分がどの文化に向かって制作を続けているのかという疑問は疑問のまま、将来もきっと解決することはないだろうと思っている。(S.H.)

サステイナブル・ディブロプメント、理想の一つとの出会い

サステイナブル・ディブロプメントの理想型: 突如として地面にたたきつけるような雨が降る。フランスにもモンスーンがあるのかといって最初は笑ったが、野外の仕事が多くなってからは真剣な問題のひとつとなった。傘をさしてはいられないから合羽を着て作業をする。雨が上がるのを待っているほどいつも時間の余裕はない。 ボルドーから120キロほど南に下ったところにあるモン・ド・マルサンという町との出会いは、1997年に遡る。モン・ド・マルサンはランド県の県庁所在地で人口3万人ほどの小都市である。松ノ木がテーマになるという展覧会のため現地の下見に招聘されたとき、ボルドーから車で走ったモン・ド・マルサンまでのアスファルトの長い道はびっしりと生えた人工植林の松林を掻き分けてまっすぐ敷かれていた。延々と切れ目もなく続く松林はもともと、森林産業のために植えられたものではなかった。中世は、膝まで埋まる泥の湿地帯で時折巡礼者が通るだけの無人の土地であったらしい。この荒れた自然を人間の知恵(後にそれがナポレオンであったことを知ることになるのだが)が大きく変えた。海岸松を植えることで松ノ木が地中のおびただしい水をポンプのように吸い上げ、結果この広大な地面を乾かすことに成功したのである。…