La bataille de tchernobyl: Un documentaire réalisé par Thomas Johnson (94’) – Année : 2006
「ラ・バタイユ・ド・チェルノビル…チェルノブイリの戦い」 - 1時間34分ドキュメンタリー・TVフィルム、トーマス・ジョンソン監修、2006年。

注記: 以下の文章は、数分前に見た「チェルノブイリの戦い」のなかで気にかかる点をいくつか抜粋したものである。2011年は、チェルノブイリ原発事故から25周年。またこのフィルムの制作された2006年は事故から20年の区切りとなる年で、メルトアウトの危機にたいするゴルバチョフの戦いも含め、当時を振り返りまた現在を検証するフィルムとして出来上がっている。福島第一原発事故のあと、このルポルタージュはフランスで何度か再放送され、われわれの将来に向かって重要な示唆を提供し続けている。…

Video: LCP

《ラ・バタイユ・ド・チェルノビル…チェルノブイリの戦い》から、抜粋

「事故が起きてすぐヘリコプターに乗り込み、チェルノブイリ原発の上を飛んだときに、破壊された建物を撮影するために窓を開けた。それが大きな間違いだったことをあとで知った」。チェルノブイリ原発事故の経過を撮りつづけた写真家がそのときを振り返ってこう語った。1986年4月26日。ウクライナのチェルノブイリ原発4号機の核燃料が稼働中に大爆発を起こし、放射性物質が粉塵となってヨーロッパ中に飛び散った。放射能の雲がほとんど欧州全土を覆う大事故。懸念された二度目の爆発を食い止め、チェルノブイリ事故を収拾させるために放射能の中で働いた「始末屋」とよばれる人たちは、総勢80万人といわれている。

4号機の格納庫は破壊されて粉々になり一部の燃料があちこちに散乱して、マグマになった核燃料は空気に触れて高熱を出しながら遮蔽床のコンクリートを溶かし始めていたことを知らされたゴルバチョフは、「とにかく何とかマグマがそのまま地中へ沈んでいくのを食い止めなければならなかった」と当時の緊急事態を回顧する。チェルノブイリ原発付近は豊富な地下水が流れており、地下水に放射性物質が届けば、そのまま川を汚染してウクライナからキエフに至る広範な地域を無人の街にしてしまう重大な危険性があったからだ。ソ連は技術者の頭脳を集め、原子炉にいたる地下道を掘ってマグマの沈下を食い止めるストラクチャーを作ることを決定。高濃度の放射能を放つ4号機まで近づき、トンネルを掘って炉心の下にストラクチャーを作る男たちを募らなければならなくなった。20歳から30歳の、放射性物質を始末する「始末屋」と呼ばれる男たちが、10万人が軍隊から、また40万人が一般市民や技術者などから集結し、前代未聞の大プロジェクトに取り組むことになった。

チェルノブイリ付近は砂地で、トンネルは深さ13m。摂氏50度という高温のトンネルの中では、防護服もつけず、またマスクがあってもすぐに汗で使えなくなるためにはずし、ひどい場合は上半身裸でスコップで土を搔きだす作業が大車輪で行われ、ふつうなら3ヶ月かかるといわれる150mの長さのトンネルを使命感に駆られた始末屋たちが一ヵ月半で堀りあげた。「とにかく、急がなければならなかった」と当時のリーダーが言う。「トンネルの中は外より少しはいいという話だったが、水を飲むと鉛の味がした。内部被曝は水を飲むたびに起きていたのだと思う。土を掘りながら、土が口の中に入って飲み込んだやつがいたが、死んでしまった」。トンネルから外へ出ると、鉛をあちこちに貼り付けた装甲車まで走らなければならなかった。外部はトンネル内部の300倍の放射線量があったのである。

事故から8週間後、外への放射線放出を食い止める石棺の建設に取り掛かることになった。高さ66m、幅60mという大規模な石棺建設は、ひとつのエラーも許されず、また事故後の3号機の屋根にふりかかった高度の放射能の瓦礫を取り外さなければならなかった。人間が近づけないほどの放射線量のなかで、最初は誘導ロボットが瓦礫を片付けていたが、あまりの放射能にロボットが狂いだし、屋根から落ちてしまうものが出てきた。人間が仕事をするしか手立てがなくなった。ひとり約25kgから30kgの鉛の板を体中に貼り付けた「始末屋」が、たった一回40秒しか仕事をすることが許されない過酷な放射能の中で、スコップを持って瓦礫の始末にかかる。40秒仕事をするとほかの始末屋に交代をした。こうして3500人がこの任務について瓦礫の掃除をやりおおせた。

「ほんとうに別の世界のようだった。瓦礫ばかりで、自分の歯の感覚も耳の感覚もなくなって、口の中が鉛をかんだような味だった。スコップで仕事をする人間を見たとたん、彼らを撮りまくった」と写真家。彼はこのときから、一年のうち2ヶ月は入院しなければならない病人である。「20年経った今も、口の中は鉛の味がする」。3号機の屋根に上って仕事をした人たちの被曝量は1万から1万2千ベクレルといわれている。石棺の建築はロボットが行うことになっていたが、ロボットを現場まで運転していくのにやはり人間が必要だった。

「チェルノブイリ事故の収拾に180億リーブルかかった(リーブルはこの当時ドルと同価)。ものすごい費用でした」と、ゴルバチョフ。それまで嘘や不透明な情報ばかりを流していたソ連が、この事故ではじめて信用のおける情報を公表したことで、グラスノスチが評価されることになる。

続けてゴルバチョフは、「ソ連は当時、アメリカに対抗するために、2700基の核弾頭を保有していた。核弾頭一基がチェルノブイリの100倍の威力があったんです。100倍のチェルノブイリが2700基も。どんな残忍なことになるか想像がつきますか」。世界が戦略核兵器削減へ動き出す。

20年後、30年をめどに建設された石棺は傷みが早く、ひびがあちこちに入り再建しなければならない。再建費用10億ユーロが揃わず、遅滞している。(今年2011年、石棺建設費用の一部捻出がようやくなった。)始末屋として事故収拾に従事した50万人のうち、2万人が死亡したといわれ、20万人が被曝認定患者となっているという。高度の放射能の中で仕事をした20歳から30歳の男たちは今50代前後。あのときから生態異常をきたし、あらゆる内臓疾患や神経系統の疾患に苦しみ続けている。一方、現在白ロシアの放射能汚染地域に800万人が生活をしており、この地域だけでも甲状腺がんの子供は1000人を超しているという。当局は、人体への被曝量基準値を5倍にして、被曝者の数を減らそうとするなどの工作をしており、一般市民に至っては事故の被害者数はまったく把握されていない。

「なんとしても原子力から手を引いて、ほかのエネルギーに切り替えなければならない。われわれが未来に残していくものがいったい何なのかを考えなければ」と、現在のゴルバチョフは言い続ける。(LCP TV)