フランスから―環境とアートのブログ

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私の日常

きょうの話

さて、今の私の話である。 現在、夏のルーアンの大きなプロジェクトのほかに、この秋に向けて隣町の企画個展のプロジェクトを同時進行している。隣町のメゾン・デ・ザール文化センターのディレクターが私のアトリエに来たのは去年の夏前のことだった。突然の電話で、まあコンタクトはいつも突然ではあるけれど、彼女らが初めて企画する野外展のアーティストに私を選んでくれたということだった。その時点からずっと、アイデアを出してはああでもないこうでもないと話し合いばかりを続けている。もう長いあいだメゾン・デ・ザールで展覧会を企画している人たちではあるが、野外のテンポラリーなインスタレーションへのアプローチは初めてのことで、なかなか理解が難しいらしい。財布を牛耳っている市の議員たちとは二ヶ月前に初めて会合をした。こちらはもっと違う世界だ。そうか、だいたい全体像が見えてきた。ようやくわがセンターでも現代アートに挑戦しようと一発奮起しているディレクターは、じつはもっと「厄介」な市議会を私と一緒に説き伏せようという心積もりだったらしい。周辺の事情がわかったからには、それなりに対応すべきであるとは思いつつ、毎回の話し合いには消耗以上の消耗を、強いられている。 ルーアン市長のように予めアーティストの知識を仕入れて理解し、初対面から何の問題もないミーティングをできるのは、いかに希少な理想型か。結局は、何を提示し、どう納得させられるかに問題は集約するのだけれど、一方で、それぞれ企画によって事情には雲泥の差がある。状況によって、はたまた人によって、アーティストもあらゆる方策を準備しておかなくてはならないのが現実、といったところなのだ。 6月1日にまた、隣町の市議会議員とのミーティングを予定しているが、すっかり視点を変えてミーティングに臨んでみようと考えている。国際通貨基金のディレクターのドミニク・ストロスカーンのように「だまって私に仕事をさせてください」というようなセリフが、早い話、すんなり言えればそれですむような問題なのかもしれない、と思いつつ・・・。 もう一ヶ月くらい前、2008年にたててまだ紙の上のプロジェクトが実現に向かっているという連絡が入った。このプロジェクトは二つの町で実現することになりそうなのだ。一歩先へ進んだからには、下請け企業のリサーチから開始しなくてはならない。まだまだ山ほどリサーチをしなければならないプロジェクトなのである。一箇所からはきのう、契約書の下書きが送られてきた。目を通さなければならないが、まだルーアンに時間をとられている。すでに台湾から船が着き荷物が岸に上がっているのに、税関を通すための書類が一通足りない。いくら注意をして手配をしたつもりでも、何かがおきてしまうのは仕方がないが、きょうはその処理で一日終わってしまった。この週末は、6月1日の隣町の議員との会合に向けてプロジェクトのPDFを仕上げるつもりでいる。契約書に目を通すのはそれからになるだろう。 さてもうひとつ、きのうは現代アートに関する本を書きながら展覧会プロジェクトを同時にするという人の電話を受けた。コンタクトは5月はじめにメールが来たのが最初である。展覧会企画のほうはパリ市の応援を頼みにしているらしい。セレクションしたアーティストがどのような形で発表までたどり着くのか、まだ、ふわふわしたアイデア状態といった気配だ。幸い急がないようなので、ルーアンのインスタレーションがオープンしたあとの7月に、実質的な話し合いに入ることになった。 2005年あたりから、本を書くから私の仕事や仕事の写真を入れたい、という話がよく湧き上がるようになった。ちょくちょくコンタクトを受けるものの、実際に図版入り単行本が出版されたのは今年の《ジャルダン・エコロジック》という360ページの厚い本が、仕事のちゃんとしたプレゼンテーションをいれてくれた初めての本となった。ほかは数回、企画がもちあがって原稿ができたのに、出版の時点で流れてしまうというもったいない事態で終わっている。今回、展覧会と同時に出版をということで、おそらくカタログがふくらんで執筆者の構想がふんだんに入る本のようなものができるのだろうと予測している。いずれにしても出版物にきちんと入れてもらえるのは喜ばしいことだ。(2010.5.29.S.H.)

服従した水

Domesticated Water/ Eau domestiquée - 服従した水。インスタレーションのドキュメンタリー・ビデオ。 1992年にフルオレセインを発見。この人工の色を使って2001年、マラコフ市メゾン・デ・ザール現代アートセンター の個展でインスタレーションを発表した。(S.H.) 作品:服従した水 Installation and video copyright: Shigeko Hirakawa

不平

ここ10年ばかり、デスクワークが急激に増えた。毎日の仕事のゆうに70%はPC相手である。このあいだ、ピヨートル・コワルスキーの協力者だった建築家のフィリップ・メラー=リベットがアトリエに来て、同じようなことをいって嘆いていた。彼の場合建築事務所を抱えていたから、今進めている建築設計のほかに、将来の仕事を獲得するために毎日コンペを探し出し新しい応募書類をやはり毎日作って送っていたそうだ。 私の仕事は建築家ほど責任が重くはないにしても、あれやこれや手続き書類をひっきりなしに作る。 企画のたびにだいたいプロジェクトは新しい。したがってプロジェクトにみあった業者探しは、ほとんどまったくのゼロからの出発で実はそう生やさしいものではない。業者が何とか見つかるとバジェットに対応するために図面を引いて見積もりを取り、プロジェクトの予算調整をしながら金額を企画者へ提示するという行程がならわしのようになってしまった。業者探しはネット検索で、また、提出プロジェクトも見積もり図面もPCで取りまとめるし、ビデオ・モンタージュや写真のりタッチもPCがたよりなのはいうまでもない。 このあたりまでは、アーティストはどこも同じような状況なのだろうとおもうが、フィリップが言うのは、それ以上になにやら事務的な手続きが目にみえて増えたことだ。たとえば、税務署に行って職業証明を取り、誓約書を4、5種類つくってサインし、CVやプロジェクト・プレゼンテーションにつける義務があったりする。これは建築家には当たり前の書類だけれど、最近はアーティストもコンペなどの機会には同じものが要求されるようになってきた。書類作りはフランスの場合、代理人がするわけにはいかない。殊に税務関係は。郵便局ですらフランスは、局留めの荷物は、荷物を受け取るべき本人の身分証明書と荷物を取りに行くように委託しましたというサインを持って行ってようやくほかの人間が荷物を受け取ることができる。 仕事の周辺の書類作りもやはりゼロから十までやらなければならず、そんなこんなで一日中コンピュータの前に座っていることが多くなった。 ほかにも私のような人間がいるかどうかわからないが、PCの電源を切って立ち上がり、アトリエの扉を開けたときに見える空や木々や風景がなんと豊富で素晴らしいことか。 視覚が満たされるこの瞬間にひどく喜びを感じる今日この頃である。(S.H.)

1986年と今日

警察権力: 保革共存政府が成った1986年は、クリストがポン・ヌフを包んだ年でもある。おそらくこの前年のことだと思うが、当時、パリ市の市長であったジャック・シラクの下で、市の文化担当官だったフランソワーズ・ド・パナフュー(現在パリ17区の区長)が、クリストのプロジェクトをジャック・シラクに提出したとき、シラクはこう対応したそうだ。「もし成功したら、それは私のおかげ。失敗したら、あなたのせい」。この問答は、いかにもシラクの政治家の一面を物語っていて面白い。 この1986年は、保守内閣による強力な警察権力の行使でいろどられた。不法滞在者の検挙がパリ中で行われたが、その検挙方法がすさまじかった。警察官を7、8人のグループにして警戒させランダムに通行人をとめては検査をした。そのとき身分証明書を携帯していない者はその場で捕らえられ、連行された。 メトロの中では各駅で、改札口を入ったすぐのところにやはり同じ人数だけのグループの警官が待っていた。フランスのメトロはいったん改札を入ると、もう後へは戻れない。後ろには機械、前には警察官が立ちふさがり、逃げる隙間はなかった。このようなネズミ捕りのような仕掛けの中で、不法滞在者たちがつぎつぎと検挙され、検挙されると即日ロワシー空港のわきの留置所に連れて行かれて、大概の者はそのまま3日後には国外追放された。警察官だらけのパリの街が何ヶ月続いたかわからない。この取締りで捕まり国外追放された不法滞在者の数は1万5千とも2万人ともいわれている。 このとき一人の日本人が検挙された。日本では九州派で知られる桜井孝美だ。彼もロワシーの脇の留置所へそのまま連れて行かれて犯罪人のように取り調べられた挙句、飛行機を待つことになった。幸い、すぐに弁護士が介入して難を逃れ、裁判へ持ち込まれて審議されるまでいったん猶予期間を与えられることになった。裁判では、桜井孝美がフランスにいる価値のある芸術家であることを証明して、滞在許可をもらおうというのが、本人と弁護士の希望であったように記憶している。そこで桜井孝美は、周辺のフランス人や日本人の知人を集めて文書を取り、自分はこれだけの人たちに支持されているという証明として電話帳のような厚さの陳情書を作り上げた。私も書いた。桜井孝美は、この話に周辺の人たちを巻き込んで文書を作るからには、アート・パフォーマンスにするとあちこちに表明し、陳情書は『パラダイスへの道』と名づけられて内容も変化しつつ数年間、本人の手で発行され続けた。裁判はというと、滞在の手続きをきちんと取るという条件で勝利したというはなしをきいている。 外国人滞在者の管理は警察にあり、われわれの滞在許可証の発行や書き換えは滞在地の警察で行うきまりである。現在の不法滞在者の扱いや国外追放のありかたは、実はこの1986年のような強行なすがたとあまり変わらない。 数年前偶然、エデュカシオン・サン・フロンティエール(無国境教育)という協会があるのを知った。大方が学校の先生のボランティアで全国組織を持つ。彼らの主な仕事は、生徒を警察に検挙されたり、国外追放の危険から守ることにある。親が不法滞在であっても子供には教育の権利があり、実際フランスの教育の恩恵を受けている外国人の子供たちが大勢いる。教育の場に警察がはいり、そうした子供たちや子供を送り迎えする親を検挙したり、また高校などの卒業式の日に学校を取り巻いて、教育の権利を終えたばかりの生徒を正門で捕まえ、国外追放を強行したりすることが頻繁にあるらしい。そうした警官隊を前に、生徒を渡さないように同級生や先生がスクラムを組んで衝突する場面がままTVで報道されたりしている。 2010年初頭、モロッコ人の女子高校生が兄に殴られ怪我をしたので警察に駆け込んで訴えたところ、警察は兄を捕まえずにこの女子高校生を捕縛した。女子高校生が滞在許可証を持っておらず不法滞在と判明したためで、即座に国外追放されてしまった。ここで活躍したのは高校の同級生たちと エデュカシオン・サン・フロンティエール(無国境教育)協会で、内務省や大統領に陳情して女子高校生のフランス入国許可を取り付け、女子高校生は無事帰還しみんなに歓待されたことがメディアでも話題になった。異例の入国許可に怒ったのは、内務省の規約どおりこの不法滞在者を国外追放した土地の知事で、女子高校生の再入国直後、辞任したという結末になっている。(S.H.)

ブログのプロローグ

フランスのアート状況のきのう、きょうをテーマにブログを開設する。 1.フランスの今日のアート、2.フランスの社会と日常、3.私の日常(アーティストの毎日)、という三つを中心に多くの情報を収集しながら私の話をはじめようと考えている。 1983年に渡仏をして今日までフランスで創造活動をしている私は、必然、フランスという社会の日常のなかで仕事をしてきたことになる。毎日ここで生き作家として存在していくことは、この社会の現実や問題に直接ぶつかっていくことでもあったから、フランスの今日のアートを私なりに叙述するにはこれらの三つの事柄が、自然に盛り込まれてくることになると思う。 EC・欧州連合が成立して10年になり、殊にこの5、6年のフランスの社会の動向は劇的に目覚しい。この目を見張る変貌の中で、アートのありかたもどんどん変化を遂げている。その変化はここ30年のフランスの努力ともいえるものだが、成果として見えるようになったのは、EC統合後、世代交代が目に見えて始まった時点であったように思う。 1980年代に、まずは社会党新政府が、ジスカール・デスタン時代に局レベルに格下げされていた文化省を再建して予算を倍増し、現代文化のインフラストラクチャーを全国に建設し始めたが、20年以上経った現今、それら施設のアートディレクターが世代交代をして活動することが「当たり前」のようになり、また文化における地方分権が現代文化振興の概念とともに政治の中にしっかりと根を下ろし始め、全国各地で公共団体やECなどから文化予算を配布されて活動する協会や地方・県・市町村が出現し続けている。中央中心、あるいは専門家だけの現代アートではなくなり、地方レベルであちこちで自立した活動(しかもしばしば高レベルのイベント)が行われているのがはたして夢のようだ。 私が渡仏した当初、誰も「現代アート」などという言葉を知らなかった(言葉が文法的にちゃんと存在していても)フランス国民が、いまや、小学校の校長先生から6歳から11歳までの全学年のワークショップに、「サイト・スペシフィック・インスタレーション」を課題にしてほしいという要請を受けるような時代に変貌した(2010年2月、ドルドーニュ県ビューグ市の小学校でワークショップ、フランス教育省援助)。 大学レベルの講演などにも招待されて学生の前で話をすることもあるが、小学校で、小さい子供に現代アートのはじめの一歩をいう願いに応えてワークショップができることは画期的とも言うべき出来事で、フランスの過去を知っている私にとっては幾段も嬉しい。こうしたアドミニストレーションの柔軟さは、フランスにおいても希少ではあるが、先生たちの熱意がありさえすれば実現できる時代がフランスに到来したことに感慨せずにはいられない。 フランス国民がこうしていろいろな方向から長い時間をかけて咀嚼してきた現代アートを含むフランス現代文化が、見えないところから支障をきたし始めている。いや、見えるところから言えば、すでに2007年、サルコジが大統領に当選したとき、内閣編成で「文化省」が省からはずされる、という噂が飛んで、文化人がだいぶ身構えた。省にとどまるか局レベルに落とされるかの問題は、即時的に予算の問題である。省から格下げされれば予算は大幅削減である。文化省はこのとき幸い、そのままとどまった。昨年あたりから再び地方の芸術活動を支援する協会から不平の声が聞こえ始めているが、どうやらこれは、文化省よりも国がおしきせる支援体制の組織の複雑化によるものらしい。 「協会」とは、フランスでは1901年協会法という法律があり、この法にのっとった協会は国の支援を得られることになっている。80年代に立ち上がった地方の大きな現代アートセンターの群れも、また昔ながらのサロンといわれるパリの公募展がいくつかあるが、それらサロンもみな協会(アソシエーション)を成立させて援助金を獲得し、毎年の企画をまかなっている。その援助ゆえに、協会設立は今もあちこちで行われているのである。 不平の声は昨年仕事をさせてもらったドルドーニュの協会からあがった。公共の援助金は公庫から出るので、出費の際の領収書を含めた多くの資料が引き換えに必要になるが、 今回、資料作成を二重に複雑にさせられた上に、その資料提出先が今までの文化事務局ではなく、農業事務局だというのである。文化事務局がどこへ消えたのかはわからないが、農業事務局が兼任(農業と?)することになり、勝手のわからない事務局から一向にわれわれの書類が動いてくれない、ということだった。農業事務局が協会の資料を再作成するようにいってきたので、私も協会に提出した私の給与や材料費返済にかんする領収書を書き換えさせられた。事務局から資料が動かなければ、出費返済も進まない。協会は赤字を抱えたまま、翌年の企画を始めなければならないことになった。「そんなバカな」と誰もが言う。フランス文化省が再建されたとき、組織拡大に伴って、政府は「文化創造に寄与するために、役人の文化教育を怠らない」という条文を発令した。発令して、現代アートのために新設した造形芸術局のパンフレットに印刷し、オペラ通りの事務所のレセプションに誰もが持って帰られるようにパンフレットを山積みにした。文化を理解して、はじめて文化予算を采配できる、という政府の配慮を皆に知らしめたわけだ。四半世紀も積み上げてきたその道理が、こうして簡単にへし折られた。 鼻先をへし折られてがっかりしているのはドルドーニュの協会に限らない。小さい団体ほど、影響を受けやすくつぶれやすいはずである。先週だったか、地方の一般の人々とじかに接して活動している文化団体がこうした不都合に対してストライキをした。不合理への糾弾は、即実行の国である。 さて一方で、フランスのオーガナイゼーションの規模の振幅は、今までになく大きい。 大物を上げれば、国際ビエンナーレは、エスチュエール(ナント市から河口のサン・ナゼール市まで約60kmにわたる地域で開催)、リヨン・ビエンナーレと、フランスは二つも抱えているし、 地域の中レベルのビエンナーレ、トリエンナーレは数え切れないほどの有様である。地方、県、市町村も、おのおの「文化振興局」を持って機能させており、企画野外展も数多い。 これらの企画は、地方であるがゆえに、また公共団体の企画であるがゆえに、情報がその地域にとどまったきり、中央(パリ)まであがってこなかったり、ほかの地方へ広まらないのがこれまでの常であった。町中が全身全霊でかかりきりの、また知られたアーティストが十二分に力を発揮して仕事をするような大きな展覧会であっても、単に全国紙のジャーナリストがパリから一歩も出ない(出られない)という理由だけで、不問に付せられてしまうことがいかにも多かったのである。フランスが自分で潰してしまう情報は、外からも見えるはずはない。こうしたフランスの情報収集の方法とズタズタともいえる情報網の弱点は、当然のようにフランスの現代創造を外国から過小評価させることになった。 新聞や雑誌などのプレスがセレクティヴなのは仕方がないどころか「当然」だ、という向きもあるだろう。問題は、セレクティヴであれば、何を基準に選択をしているかということだろう。 このブログに載せる記事は、したがって、今までのプレスのあり方をはずれ、フランスがここまでにいたった理由を交えながら、地方の大きな企画の紹介や現代アートの創造の現場を紹介し、私の経験や眼識を通しつつ、グローバルにフランスのすみずみまでその今日を提示していきたいと考えている。(S.H.)

ルーアン・アンプレッショネ展の周辺

7月3日総合開催予定のルーアン・アンプレッショネ展は、ノルマンディー・アンプレッショニスト展と共同のプレス・コミュニケーションを行っている。夏をとおして、ゴーモン・パテ映画館全館で、ノルマンディー・アンプレッショニスト展の総合宣伝ビデオが上映されるほか、シャンゼリゼやパリ・プラージュで写真展が開催されルーアン・アンプレッショネがパリでは写真で見られる予定だ。

現代文化、れきしの点と線 - ミリタンティズム

20世紀のアーティスト・イン・レジデンスをレジデンシーの氷河時代といったが、アーティスト・イン・レジデンスに限らずこの時代の現代アート政策全体の閉鎖性は、今のフランスの開けた現代アートの現場を考えると、おそらく必要不可欠の昆虫で言えばサナギの時代だったのだろうと思う。フランスが自分の現代アートの方向性を真剣に試行錯誤していた時代で、ほかからの異物の因子の浸入もすみずみまでコントロールしなければならなかった。 ちょっと彼らの文化の歴史を振り返ってみると、史上初の文化省設立はアンドレ・マルローが担当して1959年に実現した。10年続いたのだが、その間に実行に移せた現代文化プランはメゾン・ド・ラ・キュルチュール(文化会館)を全国で三軒建てただけにとどまった。予算がほとんど出なかったのだ。しかしインテレクチュアルのマルローとマルローを支える知識集団が、文化について、またこれからの現代文化について検討しつづけ、夢を明文化した。明文化したものは文化省の貴重な基本概念となって今まで生き続けることになった。その主旨のひとつは、「いままで特権階級にのみアクセスが可能であった芸術を一般市民のすみずみにまで鑑賞可能なものにしたい」、そのための文化政策が必要だというものであった。 1970年代、ポンピドーのあとを継いだジスカール・デスタン政権は、文化省を局程度に格下げした。もともと多くなかった文化予算はこうして大幅削減した。またこの時期はオイル・ショックで世界中が恐慌をきたし、フランスもどん底を味わっている。 社会疲弊を苦しみぬいたフランスは、1981年の大統領選挙で社会党のミッテランを選んだ。文化省の再建は、このミッテラン政権下で行われた。確か、この80年代の文化省は、10個の庁で構成されていたように記憶している。文化環境調査、音楽・ダンス、劇場、文学、アーカイブ、遺跡、映画、美術館、文化教育、そして造形芸術庁の10個である。造形芸術庁は現代芸術の専門の庁として、美術館からも遺跡管理からも、また美術教育からも独立した機構を初めて確立した。独自の機構の確立とは、機構独自の思想の確立のことである。現代芸術のインフラストラクチャー作りがこうして始まった。造形芸術庁のもとで、現代アーティストの作品買い上げ制度、アトリエ建設、1%プロジェクト、アーティスト・イン・レジデンス、支援金制度などが少しずつ推し進められた。地方への敷衍は、各地域に文化振興局を配置して文化省からの援助金をすみずみの文化活動へ注ぎ込めるようにし、また作品買い上げも地域ごとに組織をつくり、その地域のアーティストの作品を中心に買い上げる組織を作りはじめた。経済的に厳しかった70年代からの立ち上がりでもあり、また、新しい機構作りを並行して行いながらの編成である。82年に文化予算を倍増したものの、思うところへ思う予算を回すにはどうしても時間がかかった。勢いいつものように、思想のほうが先行せざるを得なかった。まだ何も実現しないうちに肝心の思想が潰れてはいけない。必要以外のものから新しい組織を防衛する必要もあっただろう。おそらくそんな時代に、私などは彼らの鉄の壁のような閉鎖性に向かい合っていたように思う。 事実、文化省再建は決して順調にはいかず、再建後5年も経たない1986年、国民議会議員選挙で社会党が敗退し、社会党のミッテランを大統領に保守タカ派のシラクが首相となり、内閣の大半を保守が占める保革共存政府がなった。保守からフランソワ・レオタールが文相に就任し、文化予算を半年凍結して保守派側の方針を優先し、土台を組み立てたばかりの新しい文化省が混乱する時代があったりした*。 2年後の大統領選でミッテランが再選し、社会党を中心とする革新内閣が復帰してしばらくたった90年代初頭のことだ。文相のジャック・ラングが、「これからはフランスのモードも文化に入れましょう」といったことがあった。鉄の壁の向こうで、現代文化とは何かを咀嚼して現実の支援体制を形作ろうとしていた文化省が、少し間口をを開いて、ファッションもクリエーションだから、モード(ファッション)界も文化の仲間入り、といったときに、なんと、当のモード界の人間が反駁したのを今でも鮮明に覚えている。「モードは文化なんかであるものか。商業そのものですよ」と。文化の本質をフランス全体が鋭利に思考する時代は長かった。同じような時期に日本を見ると、いろんなものが混沌として何でも文化になっていくのが不思議で仕方がなかった。この点で、二つの国の「文化」はまったく正反対の方向を向いて進み続け、広がる溝の中で私自身も引き裂かれていくような思いをさせられたが、こんな思いを抱えているのは私だけだろうか。 90年代に私の個展を企画をしてくれた町のアート・ディレクターは、役人を相手に展覧会を打ちたて、奔走して展覧会予算を獲得してまわることを、「ミリタンティズム」という言葉を用いて表現した。ミリタンティズムとは英語のミリタリーと同類語であることがわかるように、攻勢的に戦って勝ち取ることを意味している。20世紀はこんな風に、固いの壁の向こうとアーティストを結ぶ現代文化のミリタン(戦士)がいてくれたのである。(S.H.) (*1986年、保守派の国民議会議員選挙の選挙公約は、それまでフランスの企業の大半が公社といわれる国営企業であったのを民営化していくことだった。したがって、保守派の勝利で文化省において第一に行ったのは、テレビ局を一局民営化することだった。民放のTF1テレビはこのとき誕生している。)

アーティスト・イン・レジデンスと展覧会

地方での活動で、アーティストはほとんど自分の財布を開くことがない。それぞれバジェットにはバリエーションがあり、またアーティストを受け入れる企画側の条件もそのつど違うので、周辺を考慮に入れながら与えられたグラントのなかで新しい作品を制作していくという形がそこここで、またアーティストのなかにも定着しつつある。現在のアーティスト・イン・レジデンスは、そうした意味でアーティストが丸ごとサイトスペシフィックなヴィジョンの中にはまり込み、作品もその雰囲気の中でしか考えられないものが生まれたりする恰好の道具の一つとなっている。 3年前、フォントネィ・ル・コント市の企画に呼ばれたとき、30代そこそこのアーティストと宿をともにした。彼女はあちこちのアーティスト・イン・レジデンスに受け入れられつつ制作を続けており、田舎の何にもないところにあったレジデンスでは5000ユーロのグラントをほとんど貯金できることもあったといった。 残念ながら、私はアーティスト・イン・レジデンス世代ではない。20世紀の話で恐縮だが、1980年代後半に地方の設備が整い始めて現代アート・センターや協会があちこちでアーティスト・イン・レジデンスを 開設し、造形芸術庁が分厚いカタログまで出版したとき、当然のように私もトライしようと考えた。ところが、応募の問い合わせをすると、電話口で「それは勘違いです」という、すぐには理解不可能の妙な対応をされた。何度か同じような目にあって、ようやく分かった。アーティスト・イン・レジデンスは大半が公募ではなかったのだ。フランスの現代美術の公的な機関の窓口として作られたものであって、その窓口は企画側からしか開かれていない一方通行のものだった。こうした頭越しの、フランスの現代美術への政治性を強く押し出した活動とその閉鎖性は、20世紀いっぱい続いたといえるだろう。 そうこうしているうちに、地方の企画展に招待されるようになった。1988年のロシュフォール市企画が私の最初のものである。ロシュフォールの企画展規模は大きく、町の要所となる建物や公園などを目いっぱい参加させたものだった。現地制作を一週間から10日して、当時は制作費からは程遠いほんのわずかの援助金が出た。アーティストは全員、町から宿をあてがわれ、食事もでた。交通費や作品の運送費もすべて町が面倒を見る。ほかのアーティストとカフェに入ってコーヒーを飲む時くらいしか財布を開かなかった。アルザスから800キロ以上、一人で作品を積載したトラックを走らせてきた女性アーティストもいて感心させられたりもした(自分で車で運んできたアーティストにはガソリン代が出る)が、すでに当時から、作家の移動や生活費、作品の運送にかんする経費は企画者の采配のうちにあったのである。 出来上がった作品をもってくるか、現地制作をするか、作品の提示の仕方は作家それぞれだが、展覧会で地方へ移動してはその土地に留まり、作品を作って地域の住民と交流すること自体、内実レジデンシーとあまりかわりがない。現在の展覧会企画は、たいがい制作費やアシスタントもついて、給料も別個に支給される。私の中ではこうしてアーティスト・イン・レジデンスは地方から招待される企画展とない交ぜになり、今日まで活動を続けていることにいまさらのように思い当たった。 経費はまた別個にフォローされるからグラントをそのまま貯金できたというのが少々うらやましいフォントネィ・ル・コントで出会った若いアーティストには、フランスのアーティスト・イン・レジデンスの氷河時代をこんなふうに説明した。フランス人の彼女がフランスの過去に驚いていたのは言うまでもない。(S.H.)

Project 2010、《空気の誘引・Appel d’air》、ルーアン市

ルーアン市企画 『ルーアン・アンプレッショネ』展。 開催日程: 2010年7月3日から8月29日まで。 市内のあちこちに作品が設置される。 2010年6月26日、平川滋子プロジェクト”Appel d’air(アペル・デール)”のオープニング。 2010年7月3日、ルーアン・アンプレッショネ展、総合オープニング。 ルーアン・アンプレッショネ、とはなんというタイトル。フランス人でさえ「変だね」という。この夏企画されているノルマンディー・アンプレッショニストという印象派にちなんだ町を抱合したどちらかというと古いイメージの印象派の展覧会とかかわりながら、一方で現代は現代のもっと異なった見方があるではないかと主張するルーアン独自の見地に根ざしたタイトルだという。ノルマンディー・アンプレッショニスト展と同時開催のルーアン・アンプレッショネは、当初からそうした思想の自立の中で動いている。 昨年秋口にコンタクトをしてきたコミッショナーのロールはこのとき、私を含め3人のアーティストを選んでグローバルなコンセプトを頭に描いていた。一人はアルヌ・クィーンズというベルギーのアーティストで、ルーアン市内の橋を閉鎖して大きな木のストラクチャーを作る。もともとは建築家でエンジニアリングを含めグループで制作するという。もう一人は、オリビエ・ダルネというアーティストで《ベトン・ミエル》という作品を作る。ベトンはコンクリート。ミエルとはフランス語で蜂蜜のことで、本物の蜂を街中に持ち込み、その環境の中で蜂が作る蜂蜜を試食できるという。蜂は8メーターほどの高さのサイロの頂上付近で仕事をし、蜂蜜はサイロの下方に下りてくるしかけだという。ルーアンはどんな味になるのか。フランスでは農薬による蜂の減少が問題化して久しい。そういうわけで、環境と蜂と蜂蜜とそれを食べる人間を直結したインスタレーションとなる。(オリビエ・ダルネの蜂のインスタレーションは、2010年4月発刊のジャルダン・エコロジック現代アート単行図版の表紙にとりあげられた。)そして私のプロジェクトは、《空気が危ない?》プロジェクトに話題が集中することになった。

プレス

ル・フェスタン 季刊 2010年春 第73号 発売中 レ・リヴ・ド・ラール協会企画展特集掲載 Le festin #73 – Printemps 2010 Patrimoine, paysages et création en Aquitaine (Bordeaux) www.lefestin.net

プレス

ジャルダン・エコロジック 現代アート単行図版本 2010年4月発売 (英仏語・英中国語、25x27cm、320頁) ソフィー・バルボー著、ICI コンサルタント出版 jardins écolorgiques – ecology, source of creation Sophie Barbaux, ICI Interface (Paris) www.ici-consultants.com