フランスから―環境とアートのブログ

開く:記事の大見出しをクリックする
・現代文化、れきしの点と線

もう一度現代文化、サルコジの文化嫌い 

いつの間にかサルコジ攻撃をするほうに回って、アクチュアリティなどもサルコジ批判に関連するニュースを多く取り上げるようになった。思い出すのは、ニコラ・サルコジが大統領に選出された2007年の初夏、フランスの全国紙『リベラシオン』の第一面は、ほぼ毎日がサルコジ批判だったことだ。『リベラシオン』はどちらかというと革新系の新聞だが一般庶民的な新聞でもあり、たとえばサルコジが「ナショナル・アイデンティティ」を提起しはじめ、世間が大騒ぎをし始めたころ、新聞の第一面に北アフリカ系の顔をした「フランス人」が、レントゲンの機械の向こうに立ち、こちらから医者が虫眼鏡で映し出されている白黒のレントゲン写真を「骨の髄まで」フランス人かどうか検査している風刺漫画が描かれたりしていて面白がって読んでいたが、記事の内容はというといかにも深刻で、ユダヤ系フランス人が身分証明の更新のときに、役所で「宗教証明」なるものを提出するように命令されたとか、十年以上フランスで出稼ぎをしてお金をためた外国人が家族を故郷から呼び寄せようとしたところ、法律改定でそれが不可能になり、家族は別れ別れのまま一緒に住めないとかいった、フランス人や外国人の扱いに関する細則がじわじわと締め付けるように改定されていくというものだった。…

フランス、現代文化政策の終焉か?

新文化省にみる現代文化政策崩壊のきざし - ニコラ・サルコジが大統領に就任した年(2007)の12月に発案されていた文化省の再構成が、2010年1月13日、実施の運びとなった。それまで10の各文化・芸術分野の専門の管理局があったが、4つにまとめられて「見通しの良い管理構成を持つ目的で」あたらしい文化省が発効した。(政府の文化エキスパートの放逐と文化行政部の縮小とみられる。) 新たな文化省の構成は以下のとおり。 ・Le secrétariat général(事務総局)、 ・La direction générale des patrimoines(文化遺産局)、 ・La direction générale de la création artistique(芸術創造局)、 ・La direction générale des médias et des industries culturelles(メデイア・文化産業局)、 省間庁: Délégation générale à la langue française et aux langues de France(フランス語とフランスの言語総合庁) 地域の文化省: ・Directions régionales des affaires culturelles(DRAC 地域文化振興局) ・Services départementaux de l’architecture et du patrimoine(建築文化遺産に関する県内サービス) ・Les établissements...

れきしの点と線 - コミッション

年譜: 1959年-1969年 シャルル・ド・ゴール大統領 初の文化省設立、アンドレ・マルロー文相が10年一貫して在任 1969年-1974年 ジョルジュ・ポンピドー大統領 文化省継続 1974年-1981年 ジスカール・デスタン大統領 文化は閣外局に格下げ 1981年-1995年 フランソワ・ミッテラン大統領 文化省の再建、ジャック・ラング文相 1983年文化予算倍増 1995年-2007年 ジャック・シラク大統領 2007年-     ニコラ・サルコジ大統領 予算獲得に四苦八苦したアンドレ・マルローのあと5年経つかたたないうちに、文化省は「省」格を取り上げられてしまった。1977年1月に国立近代美術館を入れた新しい文化センター、ポンピドー国立文化芸術センターが開館したのを除いては、ジスカール・デスタン時代の閣外局が7年も続いて内閣のなかの文化はほとんどといっていいほど力を発揮できず、また進展もしなかったらしい。7年という長い空白から、1981年のミッテランの《レ・グラン・トラボー》宣言への大転換は、並々ならぬ試練を乗り越えなければならなかった。 ジャック・ラングの大臣室長だったジャック・サロワがこう洩らしている。「文化省の重要なポストについていながらなにしろ経験が浅すぎ、経済省の役人と対等にやりあってバジェットを動かすのもなかなか難儀な時代だった。・・・。また省の人員も、バジェットの取り合いに明け暮れるだけの人間が入り混じり、真の文化の大望のために省の中においても戦わなければならなかった」。 確かに、1980年代初頭にフランスに来た私などは、どこに行っても何かが壊れるか盗まれるようなフランス社会の荒れように心底驚いたが、あちこちで大工事がはじまるのを目のあたりにし、悲惨な社会をかかえたフランスのいったいどこから資金が沸いて出るのか、荒廃した日常と文化にかける莫大な大工事費との大きなギャップが不思議で仕方がなかった。文化省はこのとき、 再建といってもほとんど一からの出発である。文化の多様な姿を実現するにあたって、過去の正論をあちこちから拝借し今流に味つけするなどの苦心をあちこちにちりばめたようである。 ド・ゴールとマルローの60年代、衛星都市を中心に新しい都市を建設して新しい産業を発展させるプロジェクト、「新都市 Les Villes Nouvelles」計画が誕生した。マルローは、国の役割のひとつはコミッション(作品発注)だといったが、三種の神器とも言うべきコミッションについてミッテラン時代は、新都市計画を改めて推進する際、各都市の環境に適合した現代アートを大々的に組み込む計画を立てた。国土開発省の新都市建設プロジェクトを利用してコミッションを生み出し、モニュメントを新都市のあちこちに生みつけたわけだ。パリの西に建設された経済都市ラ・デファンス建設の際も数多くの現代アート作品が組み込まれているのは周知の事実である。 1960年代から開発の新都市は全国で9箇所、パリ周辺では5箇所: セルジー・ポントワーズ エヴリィ セナール サン・カンタン・アン・イヴリン マルヌ・ラ・ヴァレ

レ・グラン・トラボー (1)

それにしても大工事だった。歴史上にも、「過去に匹敵するようなものは見当たらず、また未来もおそらくなかなか見ないような」とは、ジャック・ラングの第一期文相時代の大臣室長だったジャック・サロワの表現である。フランスの変貌を歴史的にみると、おそらく19世紀のオスマン男爵のパリ都市改造計画が大きなものとして目立っているが、1980年代のそれは都市改造という言葉だけに還元するようなものではなく、それをさらに大きく上回る何かが胎動していて、まさしく前代未聞の時代であった。時間がたったこんにち、その成果や失敗やらを含めて「今」を見極めるために振り返ってみる必要を感じている。 1981年に始まった《レ・グラン・トラボー》は、「文化」の大工事であったことをもういちど明らかにしておかなければならない。ほんとうの建設工事の始まりだったから、大工事をそのまま訳して《レ・グラン・トラボー》とよんだ。省内では建設現場そのものだから「シャンティエ(工事現場)」とよんだらしい。フランソワ・ミッテラン大統領が音楽、文学、現代芸術、科学技術などの文化のあらゆる分野において最も活発にして優秀な活動を実現する現場となる建物を建設することを決定して開始した大工事のことである。 国のすみずみまで、そしてできるだけ多くのフランス人にいかなる国の文化財産へも、またいかなる形態の現代芸術の誕生やその変遷へも自由にアクセスを可能にしてやりたいという念願に応えて(これは1959年、アンドレ・マルローが文化省の第一の目的として条例化した課題)、この工事の中には、ルーブル美術館の再建、いまだインスティテューションが行き届かない地域へ文化施設を敷設することも組み込まれたのはいうまでもない。 1989年のフランス革命二百年記念祭にあわせていくつかの大きな新しい文化施設の開館予定を、当時の文相ジャック・ラングがこう説明している。 「1989年7月14日は、ミッテラン政権時代の大きなポイントとなります。グラン・トラボーのうち重要なものが完成し、首都の文化における地理構造が明解なものになります。西は新都市ラ・デファンスの開幕、東はバスティーユ・国立オペラ開館、中央はルーブル美術館のピラミッド完成、そして北は科学技術館ビレットができるわけですから」。 ルーブル美術館の大工事《ル・グラン・ルーブル》は完成に約20年かかったという。地下のむかしのルーブルの発掘に始まり、 マルローが夢見たように、財務省に撤去してもらいルーブル宮を丸ごと美術館にした。財務省にどいてもらうからには財務省の入る新しい建物が要る。したがってベルシーの用地に新しい財務省を建設することをきめて実行した。 収蔵作品は、ルーブルが1848年の最後の王政までをカバーすることが決まっていたから、この後の時代の美術にかんして、1970年代に工事をストップされていたオルセー駅の改造計画を呼び覚ました。ついで、ジュー・ド・ポーム印象派美術館から19世紀の作品がここに移され、19世紀美術館と命名される。空になったジュー・ド・ポームはというと、現代アートの現場が少ないという意見があったからか、国立現代アートセンターに改造されて名前も改名し、現代作家の活動を企画することになった。 ひとつ何かを動かすとチェスのようにほかも動いていかなければならない。建物を動かすその裏側で、大きな文化の大編成が逐次行われていたのは、すでに言及したところである。 先のジャック・サロワは、「インスティテューションを敷衍するだけでは文化の地方分権にはまったく不足だ」と述べている。各分野の中心となる建物を建設しておのおのの凝縮した制度を確立することは、国民の目をいっせいに文化にひきつけるひとつの手段でありまた始まりでしかないことを、彼らが十分に理解していたことを指す一文だ。パリ中が工事で地響きを立てていたとき、「大きなシャンティエに隠れて、ほんとうに進めていかなければならなかった地方への機構作りは、大本の中央の機構作りが同時に行われていたこともあり、なかなかマネージメントうまくいかず葛藤がありすぎた」とも述べている。大工事に隠れたほんとうの大事業が、サロワの文章に「Combat 戦い」やら「Militer 闘争する」やらといった攻撃的な言葉が同じページに3度も4度もでてくるように、彼らに底通する日々の執着だった。 文化省のトップにいた人たちにとっても、文化を再建することは「戦い」そのものだったのだ。 予算を勝ち取って展覧会企画をしてくれる文化のミリタンの話をしたが、こうしてみると、この時代は文化を担う人々に「戦う」姿勢が上から下まで充満していた時代だったのだなあ。

れきしの点と線 - デコンサントラシオンと文化

1969年、文化の地方分権化の始まり。 La Déconcentration – ラ・デコンサントラシオン: 文化省の中央集権的政治および事務的構造を、地域に《地域文化振興局- Directions régionales des affaires culturelles/ DRAC》を作ることによって、文化行政が地域へ出現し発展するよう発想されたもので、アンドレ・マルローによって1969年、地域3箇所に初めて地域文化振興局がおかれた。 この文化省のブランチDRACの存在によって、文化省は地域へアンテナを伸ばすことができ、かつ地域議会の文化予算に対応する予算の注入への配慮などの、中央と地域のバランスがとれていくことが期待された。 フランス国内は22の地域に分割されている。それを考えると、マルロー時代、3箇所のDRAC設置は、まったくのはじめの一歩というべき象徴的な出来事というだけにとどまり、全国に文化省の力を敷衍するまでにはいたらなかった。 1976年(ヴァレリー・ジスカール=デスタン大統領、ジャック・シラク首相)、Françoise Giroud(フランソワーズ・ジルー)が文化付閣外大臣(文化は省から閣外の局レベルに格下げされ、大臣は閣外大臣と呼ばれる)となり、短い任期中、地域文化振興局DRACの設置を制度化する条例を制定した。 ジスカール=デスタンはヨーロッパ共同体へ傾倒し、シラクはデコンサントラシオンを理由に、文化省を閣外に落としたという。財政の地方分散で文化も地域の采配に任せたという話だが、地域は自立して活動を行うまでにはいたらなかった。フランソワーズ・ジルーはこの政権下で女性の解放、平等化などへ尽力し(1974-76)、文化への思い入れのある政治家の希少なこの時期の政府の中で、文化の夢に「固執して」DRACの条例化をすすめた(1976-77)という。 La Décentralisation – ラ・デサントラリザシオン: 1982年83年(ミッテラン大統領、モロワ首相)制定の地方分権法。中央の権威や能力を地方へ分散させ、地方共同体との平衡を図る法律。この法律は政治司法、産業その他全般にわたるもので、文化も当然ここに含まれる。文化において80年代は、政府の積極策と地方共同体の熱意が功を奏し意思疎通がうまくいっていた時代であった。また文化省から地域へ配分される予算の増加とともに、DRACの体制が強化された。 1992年2月6日および7月1日、行政管区におけるデサントラリザシオン憲章設立。地方へ分散した権威に活動の権限を優先して与えることを謳ったもので、文化もこの優先権の逆転により、大いに性格が再検討され塗り替えらることになった。 したがって文化においてラング文相時代は、中央の文化政策を地域で行い地方共同体の世話をするエキスパートの役を担うというDRACの機構が実質的に形作られた時代ということができる。 (Extraits de: “L’Etat et la culture en France au xxe siècle”  Philippe Poirrier, “Le lancement de la déconcentration” André-Hubert Mesnard)

現代文化、れきしの点と線 - 国の役割

1952年、『沈黙の声』に出版されたアンドレ・マルロー/ André Marlauxのインタビューから。インタビュアー 、フランク・エルガー/ Frank Elgar。 E: ミュージアム(美術館・博物館)が発展することは望ましいですか?かえって、危険なのではないですか? ミュージアムは、芸術の退廃の兆候で、私たちの創造する力が衰退していることをさししめしているのではないでしょうか? 文明の偉大な時代には、 新しい形を創り出すことのほうが先で、過去のものの保存にはあまり配慮をしません。文化を一般にひろめることは、芸術を喜びとして感じたリ、傑作を理解したりする人間の才能の増大に結びつくことにはまったくならない、とはお思いになりませんか? M: 「偉大な時代」とは、何をさしておっしゃっているのでしょう?隆盛の時代のことでしょうね。卓越した時代が歴史を構成するとすれば、当然ミュージアムは可避できません。ミュージアムは墓場などではなく、激しい問いかけです。・・・。私たちの芸術はミュージアムから生まれ、ある意味でその論理によって発展しています。ミュージアムのおかげで過去の形を知ることができるのであって、今の私たちが新しい創造をすることとはまったく抵触するものではありません。 ・・・・・ E: さて、民主議会制度において、国の芸術的な役割とはいったいどうあらなければならないかという問題にアプローチしましょう。 こうした政体の中で、正当で理性的かつ洞察力を備えた国民の芸術生活のための執行部をつくることが可能だとお思いになりますか? もし可能だとお考えでしたら、いったいどのような条件のなかで、 そうした政策が行われなければならないのでしょうか? M: いやはや!国は芸術に、いっさい方向付けをしたりしません! 芸術に方向付けをする、とすれば、それは芸術ではなくて芸術に名を借りたほかのものになってしまいます。たとえばロシアに見たように、芸術はプロパガンダや国民を扇動するのに利用されました。・・・・。 芸術を芸術として指導する、ということをいいたいならば、それはまったく意味を成しません。現代芸術は芸術の執行部など必要としていませんから。指導というのは美術学校の段階のものでしかありません。 E: それでも、国が必要とされる場合がありますよね?もし必要とされるなら、どういった場合ですか? M: 国に負わされた使命は、美術館と展覧会、そしてコミッションです。・・・・。 行政的な問題を解く機構が薄っぺらすぎ、また支援体制も弱い。国は芸術を行っている人たちにみあった力をつけたものでなければなりません。 要約するならば、国は芸術に方向付けをしたり芸術を指導したりするためにあるのではなく、芸術に仕えるために存在します。 ・・・・・ E: この計画の主軸となる思想を概観すると、国に対するあなたの不信感は、あなたの人間への信頼感と同じくらい大きいように見受けられます。 M: 国は、現実に芸術に触れることのできるフランス人にむけて、できるだけ多くの人が芸術に触れられるよう努力をしなければなりません。 私たちは注文を受けて仕事をするようなクリエーターでもアマチュアでもありませんが、芸術を真の表現のなかで観ることができなければ、それ以下の人間になってしまいます。民主主義とは、ここでは、より大多数の人間がより広範囲の芸術作品を見ることができる政体のことなのです。 このインタビューが国と芸術の問題をさいしょに明解にしたもので、将来の政策の下書きとなった。

ル・グラン・ルーブル・プロジェクトの発端、マルローの一言

1952年、『沈黙の声』に出版されたアンドレ・マルロー/ André Marlauxのインタビューから。インタビュアー 、フランク・エルガー/ Frank Elgar。マルローが文化大臣になる7年前。 E: もし、美術大臣になられるとして、真っ先に実行に移されたいことは何ですか? M: まず、私は大臣候補ではありませんし、また私でなくても誰でもできることでしょうが、 ルーブル美術館を世界一の美術館に仕立て上げることでしょう。現在、財務省が使っている建物(リシュリュー翼)を美術館のために回収することです。それから、地方に散らばっている傑作を集合させるのです。・・・ 1981年9月26日、フランソワ・ミッテラン大統領によって、《ル・グラン・ルーブル》プロジェクトが発令された。リシュリュー翼の財務省をほかの敷地に移し、ルーブル全体を美術館に改造する大計画の始まりとなる。 セーヌ川を隔ててルーブルの対岸(つまり今のオルセー美術館がある辺り)に位置していた財務省は、1871年パリ・コミューンで焼き討ちにあい、リシュリュー翼へ入居。110年ぶりのルーブルからの撤去となった。新財務省はベルシーに建設されている。

ネットワーク

文化省の造形芸術庁は、アーティストの活動サーキットを多様化することにも尽力した。 もちろん画廊システムが存在し、あちこち公の展示場もあり、アーティストが発表活動ができなかったわけではない。しかし、画廊はマーケット中心に動いているから、作品の選択も新しいアーティストの採用も、利益優先で行うのが常である。 したがって、ほんとうは多様なはずのアートはいってみれば経済にふるいにかけられて極限され、一般の目に触れるアートは流行一辺倒に陥りがちだった。この意味で、マーケットも負けずに閉鎖的である。 そうした商業中心の芸術市場の間口の狭さに注目した文化省は、まったくマーケット基準から離れ、新しく生まれるアートがそれなりに形になり、きちんと人の目に触れられる活動の現場をつくることに力を入れ始めた。新しい世代のアーティストの育成を目指して、文化省がもうひとつの活動様式を提供したといえるだろう。 地方には80年代、すでにいくつか大きなセンターが現代アートの活動をそれなりに行っていたが、文化省が声をかけて彼らの活動に援助金を回すしくみを敷設した。もとは地域のバックアップのものもあり、また町のものもあり、アソシエーションのものもあったが、ほとんどがしっかりした規模の活動をすぐさま発展させられるような施設の整った現代アートセンターが選ばれ、「文化省つきの現代アートセンター」という総称をもってネットワークを形成したのが80年代後半の話である。これらの現代アートセンターで受け入れるアーティストは、マーケットの外で自由に創造活動するアーティストでなければならず、そのアートはそこで今新しく生まれるアートでなければならなかった。 ばらばらだった現代アートの現場は、こうしてまとめられていき、そのことによって現代アートセンター自身も使命感を増幅していった。文化省つき現代アートセンターの連携は90年代にはりるとまたたくまに、ドイツやイタリアの現代アートセンターまでのび、ヨーロッパのアーティストの巡回やイクスチェンジの場ともなり、ようするにフランスの現代アーティストをヨーロッパに送りだす窓口の役割を担うまでになったわけである。(S.H.) CNAP-国立造形芸術センター登録、全国87箇所の現代アートセンター、住所録ページ Annuaire de 87 centres d’art contemporain en France (CNAP)

現代文化、れきしの点と線 - 芸術1%

芸術1%(アーティスティック1%)とは、公共建造物の建築あるいは改築改造などが行われる場合、その建設バジェットで環境に見合った美術作品を制作あるいは買い上げることを取り決めた政令のことをさしている。 歴史:フランスでは1951年からこの制度が出現しているが、80年代の新文化省は1%アーティスティックを、文化省が決めたインスティテュートとはまた別の「アートと一般が接する」プロジェクトであり、「アーティストの生活と税制ステータスを助けるシステム」と改めて明確にし、まずは造形芸術庁(DAP: Délégation aux arts plastiques)がこれを采配した。ちなみに造形芸術庁は、1.芸術創造の支援システム、2.現代芸術を将来の国の財産として買い上げていく、3.あらゆる方向の芸術が生まれる可能性を増やすための活動サーキットの創造と増幅、のおおよそ三つの大柱を中心に推進し、80年代半ば国立造形芸術センター(CNAP: Centre national des arts plastiques)を作り、造形芸術庁と連携したかたちでその活動を現実へ向けて立体化している。 1990年代は1993年の経済恐慌の痛手に伴い建設計画も激減し、数少なかった1%プロジェクトはいよいよ水面下にもぐりほとんど公募が消滅した感がいなめなかった。 21世紀にはいり、ようやく2002年、シラク(保守)政権下ジョスパン内閣(社会党革新派中心、1986年とは逆のあらたな保革共存時代)が改めて1%に関する政令を見直した。このとき、1%の管理はDRAC(Direction régionale des affaires culturelles 地域文化振興局-各地域に設置された文化省管轄の文化活動支援局)に渡されている。2002年のこの政令は2005年2月4日、ラファラン内閣時(文相はジャン=ジャック・アヤゴン)に改定され、1%アーティスティックを義務制度として再発令した。2006年8月16日に文化省が実際の手続きを全国に通達して今日に至っている。 義務化した1%アーティスティックは2006年以降、当然のことながらプロジェクトの量を増やしつつある。公共建造物は国のみならず、地域(Régionと呼ばれる数県をまとめた地域のことで、関東地方や関西地方のような分割に当たる)、県、市町村が所有するものが多い。たとえばフランスの公立学校の管轄を例に挙げると、高等学校は地域、中学校は県、小学校・幼稚園は町が管理し、新設校の建造や旧校舎の再建はそれぞれの管理者が行うきまりとなっている。そうした教育施設の新築再建築に伴い発生する地方の1%を、当初は文化省の地域担当官であるDRACが引き受けた。しかし今日は、文化省にたよらず、地域議会や県議会が独自に1%プロジェクトを采配するところが増加しており、そうした公共団体は直接一般へ公募でアートプロジェクトを募っている。 地方の自立傾向は、こうした1%プロジェクトのアート選びにも見受けられる。これは政府が文化のみならず、政治その他の体系を分権化(Décentralisation, Déconcentration)しようとして長年政策を進めた賜物のひとつといえるだろう。 2008年あたりから、1%アーティスティック・プロジェクトのバジェット増加が少しずつはじまった。物価高騰によるところが大きい。

現代文化、れきしの点と線 - ミリタンティズム

20世紀のアーティスト・イン・レジデンスをレジデンシーの氷河時代といったが、アーティスト・イン・レジデンスに限らずこの時代の現代アート政策全体の閉鎖性は、今のフランスの開けた現代アートの現場を考えると、おそらく必要不可欠の昆虫で言えばサナギの時代だったのだろうと思う。フランスが自分の現代アートの方向性を真剣に試行錯誤していた時代で、ほかからの異物の因子の浸入もすみずみまでコントロールしなければならなかった。 ちょっと彼らの文化の歴史を振り返ってみると、史上初の文化省設立はアンドレ・マルローが担当して1959年に実現した。10年続いたのだが、その間に実行に移せた現代文化プランはメゾン・ド・ラ・キュルチュール(文化会館)を全国で三軒建てただけにとどまった。予算がほとんど出なかったのだ。しかしインテレクチュアルのマルローとマルローを支える知識集団が、文化について、またこれからの現代文化について検討しつづけ、夢を明文化した。明文化したものは文化省の貴重な基本概念となって今まで生き続けることになった。その主旨のひとつは、「いままで特権階級にのみアクセスが可能であった芸術を一般市民のすみずみにまで鑑賞可能なものにしたい」、そのための文化政策が必要だというものであった。 1970年代、ポンピドーのあとを継いだジスカール・デスタン政権は、文化省を局程度に格下げした。もともと多くなかった文化予算はこうして大幅削減した。またこの時期はオイル・ショックで世界中が恐慌をきたし、フランスもどん底を味わっている。 社会疲弊を苦しみぬいたフランスは、1981年の大統領選挙で社会党のミッテランを選んだ。文化省の再建は、このミッテラン政権下で行われた。確か、この80年代の文化省は、10個の庁で構成されていたように記憶している。文化環境調査、音楽・ダンス、劇場、文学、アーカイブ、遺跡、映画、美術館、文化教育、そして造形芸術庁の10個である。造形芸術庁は現代芸術の専門の庁として、美術館からも遺跡管理からも、また美術教育からも独立した機構を初めて確立した。独自の機構の確立とは、機構独自の思想の確立のことである。現代芸術のインフラストラクチャー作りがこうして始まった。造形芸術庁のもとで、現代アーティストの作品買い上げ制度、アトリエ建設、1%プロジェクト、アーティスト・イン・レジデンス、支援金制度などが少しずつ推し進められた。地方への敷衍は、各地域に文化振興局を配置して文化省からの援助金をすみずみの文化活動へ注ぎ込めるようにし、また作品買い上げも地域ごとに組織をつくり、その地域のアーティストの作品を中心に買い上げる組織を作りはじめた。経済的に厳しかった70年代からの立ち上がりでもあり、また、新しい機構作りを並行して行いながらの編成である。82年に文化予算を倍増したものの、思うところへ思う予算を回すにはどうしても時間がかかった。勢いいつものように、思想のほうが先行せざるを得なかった。まだ何も実現しないうちに肝心の思想が潰れてはいけない。必要以外のものから新しい組織を防衛する必要もあっただろう。おそらくそんな時代に、私などは彼らの鉄の壁のような閉鎖性に向かい合っていたように思う。 事実、文化省再建は決して順調にはいかず、再建後5年も経たない1986年、国民議会議員選挙で社会党が敗退し、社会党のミッテランを大統領に保守タカ派のシラクが首相となり、内閣の大半を保守が占める保革共存政府がなった。保守からフランソワ・レオタールが文相に就任し、文化予算を半年凍結して保守派側の方針を優先し、土台を組み立てたばかりの新しい文化省が混乱する時代があったりした*。 2年後の大統領選でミッテランが再選し、社会党を中心とする革新内閣が復帰してしばらくたった90年代初頭のことだ。文相のジャック・ラングが、「これからはフランスのモードも文化に入れましょう」といったことがあった。鉄の壁の向こうで、現代文化とは何かを咀嚼して現実の支援体制を形作ろうとしていた文化省が、少し間口をを開いて、ファッションもクリエーションだから、モード(ファッション)界も文化の仲間入り、といったときに、なんと、当のモード界の人間が反駁したのを今でも鮮明に覚えている。「モードは文化なんかであるものか。商業そのものですよ」と。文化の本質をフランス全体が鋭利に思考する時代は長かった。同じような時期に日本を見ると、いろんなものが混沌として何でも文化になっていくのが不思議で仕方がなかった。この点で、二つの国の「文化」はまったく正反対の方向を向いて進み続け、広がる溝の中で私自身も引き裂かれていくような思いをさせられたが、こんな思いを抱えているのは私だけだろうか。 90年代に私の個展を企画をしてくれた町のアート・ディレクターは、役人を相手に展覧会を打ちたて、奔走して展覧会予算を獲得してまわることを、「ミリタンティズム」という言葉を用いて表現した。ミリタンティズムとは英語のミリタリーと同類語であることがわかるように、攻勢的に戦って勝ち取ることを意味している。20世紀はこんな風に、固いの壁の向こうとアーティストを結ぶ現代文化のミリタン(戦士)がいてくれたのである。(S.H.) (*1986年、保守派の国民議会議員選挙の選挙公約は、それまでフランスの企業の大半が公社といわれる国営企業であったのを民営化していくことだった。したがって、保守派の勝利で文化省において第一に行ったのは、テレビ局を一局民営化することだった。民放のTF1テレビはこのとき誕生している。)