D-Day (仏語:Jour-J)とは、1944年6月6日、ドイツ占領下のフランスを解放するために連合軍によって行われたノルマンディー上陸作戦の日。今年はちょうど70周年にあたり、G7でブラッセルに集まっていた首脳を含め、ロシアのプーチン大統領、イギリスのエリザベス二世女王など各国重要人物がウィストレアムに集う大きな行事となる。ノルマンディーの海岸一帯の150の市町村が厳重警戒下におかれて通行止め。すでに5日から400のイベントが始まった。

フランステレビインフォ、D-Dayスペシャル(FranceTVinfoページへ)

・6月5日、イギリスからユーロスターでパリ入りしたエリザベス二世女王(88歳)は、オーランド大統領に迎えられ、凱旋門の真下に祭られている無名戦士の記念碑に参った。エリザベス女王自身、第二次世界大戦中、軍服をまといトラックを運転し救急隊で活躍した。フランスのD-Dayの来訪は今回5回目。

・6月5日、オーランド大統領は夕食を二回する異例の事態に。最初はパリの高級レストランでオバマ大統領と。二度目の夕食はエリゼ宮でロシアのプーチン大統領と、別々の接待。

・6月6日の70周年式典には、現行の外交問題をかかえながらも、アメリカ、ロシア、ウクライナ等の首脳が同じひな壇に並ぶ。オーランド大統領はアンゲラ・メルケル首相と昼食。

・6月5日、23時15分。ノルマンディーの海岸線の23の町が一斉に花火を上げた。上陸作戦に先行して、空爆が行われた当時を象徴する花火だ。

・1944年6月6日上陸作戦とノルマンディーの戦い

6月5日に予定されていた攻撃は、悪天候のために6日に延期され、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ポーランド、ニュージーランド、チェコスロバキア、オランダ、ベルギー、そして177人のフランス解放軍などを含む連合軍15万6千人が、シェルブールからカンまでにまたがるノルマンディーの5つの海岸(海岸はアメリカ軍の上陸にユタ・ビーチ、オマハ・ビーチ、イギリス軍の上陸はゴールド・ビーチ、ジュノ・ビーチ、スォード・ビーチと英米語で呼ばれた)に上陸を開始した。ノルマンディーの戦いは同年8月まで続き、総計300万人もの兵士が投入された第二次世界大戦のもっとも大きな作戦のひとつといわれている。ノルマンディー沖合いに集まった軍艦は6000隻。上陸作戦の際、ウィストレアムでは600名のイギリス兵が命を落とした。ゴールド・ビーチにも2万5千人の英兵が上陸、また、オマハ・ビーチには3万5千のアメリカ兵が上陸して、数時間のうちに2500人の兵士が戦死するという惨状を呈した。連合軍の爆撃などで死亡したノルマンディーのフランス人一般市民は3000人に上る。

一方、ノルマンディーでのドイツ軍のダメージはすさまじく、45万人の兵士のうち20万人が戦死。戦車1500台、大砲2000等の損失とともに、将軍20人と35師団を失う大きな痛手を負った。

コルビル・スュル・メールにはノルマンディーで命を落とした9387人のアメリカ兵士の墓がある。映画で有名な「Saving Private Ryan」の主人公のモデルも、テオドール・ルーズベルト大統領の子息テオドール・ジュニアも、ノルマンディーのコルビル・スュル・メールのアメリカ戦没者の墓に永眠している。

D-Day US Army シェルブールからカンにわたる上陸目的地の作戦図 Wikipedia

Plan d’attaque du débarquement en Normandie From Center for Military History, US Army (http://www.army.mil/cmh-pg/BOOKS/WWII/utah/maps/Map2.jpg) Originally prepared as part of the US Military History: Utah Beach To Cherbourg

・多大な犠牲を払った米軍の上陸、オマハ・ビーチの映像

映像は当時のようす。ほかの海岸線と同様にアメリカ空軍が上陸前に爆撃。しかし爆撃目標が遠すぎ、空爆による敵の排除ができなかったのを知らずに海からアメリカ兵が上陸作戦を開始した。オマハ・ビーチは上陸作戦の数時間のあいだに2500人を失うもっとも惨劇的な場所となった。

・チャールズ皇太子も、5日からパリ入りし、イギリス兵が上陸した当時を象徴してノルマンディーの橋を渡り、すでにノルマンディー入りしているイギリスのベテラン(ノルマンディー上陸作戦に参加した元兵士)たちと挨拶。

・アメリカからフランスに毎年訪れるノルマンディー上陸作戦に参加したベテランたち(フランスTV)

・当時の報道、BBCからフランスへ語りかけるレジスタンス「こちらロンドン。フランス人がフランスへ話をしています」

http://www.francetvinfo.fr/france/debarquement-du-6-juin-1944/video-radio-londres-les-bonnes-ondes-de-la-bbc_614605.html

ビデオは、ドイツ占領下のフランスで報道メディアもドイツに占領されていたために、フランスのレジスタンスはロンドンのBBCのスタジオからフランスへ呼びかける放送を行っていた。

・犠牲を強いられたノルマンディー(フランスTV)

・ノルマンディー上陸作戦のエンジニアリング

上陸作戦と戦いの継続に必要な兵士と兵器の輸送を目的に、6000トンのコンクリートのブロックを200も英仏海峡を渡ってノルマンディーの海岸まで運んで堤防を作り、フェニックスと呼ばれる道にしたのはイギリス軍だ。こうして5000トンに及ぶ大砲や砲弾、戦車や武器を毎日フランスへ輸送することができた。また、ドイツ軍が爆破した橋を、即効で架けなおす技術を持ってきたのもイギリスである。30人が3日で鉄の橋を架ける早業をみせた。歴史遺産ともいえるコンクリートの堤防は、70年もの間海の水に浸かっていたために痛みが激しいが、このたび3Dで当時のフェニックスが克明に映像に再現された。

・言い伝える

浜辺にはブンカーとよばれるドイツ兵が海から来る敵を迎え撃つためのコンクリートの防御壁が点在し、70年前にノルマンディーの海岸がフランス解放のための大戦場となったことを現在も常に知らしめている。地域の高校、中学が、ノルマンディー上陸に参加したフランス兵、アメリカ兵、イギリス兵の生き残り(ベテラン)から話を聞く機会を作った。「今がもっとも大きな端境期。生き残りから話が聞けるラストチャンスです」。80代後半、90歳代のベテランからじかに話を聞く生徒は2500人。

・1944年6月6日にヒットラーは何をしていたか?

ヒットラーに雇用されていた当時19歳だった女性が今なお生きている。彼女によれば、ヒットラーは明け方4時に寝て昼二時以降に起きるという習慣だったという。ノルマンディー上陸の明け方4時には、寝付いたばかり。側近は、起こすのを憚った。いつもどおりに昼過ぎに起きたヒットラーは事態を知らされてがっかりする様子はまるで病人のようだったという。

・新しい参加者、ドイツ兵のベテラン

今年は初めてドイツのベテランが、連合軍のアメリカ、イギリス等のベテランに混じって参加。ベテラン同士が握手をした。「まさか、ドイツ兵と握手をするなんて、夢にも思っていなかった」とアメリカのベテラン。

(フランスTV)