南アフリカのヨハネスブルグ郊外の自宅で療養をしていたネルソン・マンデラが12月5日、95歳でこの世を去った。奇しくも、9000kmはなれたイギリスのロンドンで、ネルソン・マンデラの生涯を描いた映画の上映試写会が行われており、マンデラの二人の娘が試写会に招かれてこの映画を見ていたときだった。ジャーナリストのインタビューに、「父は元気です、静養しています」と答えて試写会に臨んだ娘たちは、映画の途中で父親の急逝を係員から耳元で知らされることになった。…
試写会はそのまま続行され、会場の人々にもマンデラの逝去が最後に伝えられた。試写会には、英国王室も同席。ウィリアム王子は、「大変すばらしい人が亡くなったのは本当に残念です」とその場の記者たちに答えたのだが、たった今見たばかりのネルソン・マンデラの生涯を描いた映画の余韻のなかでおきた本物の主人公の死は、まさに大きな衝撃であったに違いない。
12月5日のネルソン・マンデラ死亡のニュースを受けた、ロンドン、パリのエリゼ宮、ワシントンの大統領官邸では、弔意を表す半旗が即座に掲げられた。フランスTVは、6日の朝・昼・晩の全国放送のニュースを「特別報道」として、時間の大半をネルソン・マンデラにかたむけ、マンデラの死を供養する歌と踊りの渦巻くヨハネスブルグの市民の様子をまじえながら、南アフリカのアパルトヘイト崩壊へ向けて果たした偉業と平和への強い意志を表す人柄へその敬意のことばを尽くした。
ネルソン・マンデラは1918年生まれ。1944年、黒人を含め有色人種を自分らより劣等な人種と考える少数派白人による政治の独占と人種の分離に反対し、南アフリカの政党であるアフリカ国民議会Congrès national africain(ANC)に入党して、弁護士になった。1948年、与党国民党によって施行された「アパルトヘイト」法に非暴力的に反対する立場をとる。1960年3月21日、黒人女性のパスポートに関する差別に反対するデモ隊が3000人ほど、平和デモを行っていたが、武装した白人警察官60人に発砲を受け、69人が死亡し、約200人が傷を負うという事件がおきた。死亡した69人の中には女性や子供たちが混じり、ほとんどが背中に弾丸を受けていた。アフリカ国民議会は、平和的抵抗では何の効果ももたらさないどころか死傷者を出したことから、非武装抵抗を諦め、1961年、アフリカ国民議会の分身であるUmkhonto we Sizweを率い闘争を開始する。人間は殺さないが、例えばパスポートオフィスを爆破するなどの行為を行う。1962年、アメリカのCIAが関与して南アフリカ警察がマンデラをほかの国民議会の党員数名とともに逮捕。政府に対するサボタージュや物品破壊を起訴事実として1963年、リヴォニア裁判で共産主義者およびテロリストという罪状で重労働を課した終身刑に処した。
このとき以来、マンデラは、人種平等の象徴的存在となり、圧倒的な世界的支持を享受していくことになる。
1964年、投獄。囚人番号46664号。政治犯として送り込まれたローベン島で、石を砕く強制労働などの苦役を続けた獄中生活27年ののち、1990年2月11日、マンデラ釈放。「私は預言者としてここに立っているわけではありません。一介のみすぼらしい人間として皆さんの前に立っています」と演説したマンデラは、人種解放のシンボルとしてのし上がり、当時の南アフリカの大統領、フレデリック・デ=クラークと調停協議を開始。1993年には、旧体制を覆し、平和的にアパルトヘイトを解消したうえ、南アフリカに民主主義の基礎を築いた業績で、ノーベル平和賞を収受した。
長い間の黒人と白人の相克は深い傷跡を残していた。不信や暴力がはびこる心をつなぎとめなければならない。アパルトヘイトが解消した後も仕事は続けられ、デ=クラークからマンデラへ困難な移行の中で、アパルトヘイトのパルチザンらが起こすと懸念されていた市民戦争は回避されるに至った。1994年、はじめて全人種の大統領選挙が行われ、ネルソン・マンデラが南アフリカ共和国の初めての黒人大統領に選出されたのだった。
南アフリカ共和国の黒人初の大統領ネルソン・マンデラは、一度だけアメリカのバラク・オバマと出会っている。まだバラク・オバマが上院議員だったころだ。今年夏、アフリカ遠征を行ったとき、オバマ大統領はマンデラが17年間投獄されたローベン島へ家族だけで出向いた。ローベン島はマンデラのために今や記念碑的な場所となっている。クリントンもここへ来て、マンデラがいた部屋から鉄格子越しに中庭を見たというが、アメリカの黒人初の大統領オバマも少しのあいだ一人になり、この窓の前に立って外を眺めた。 アパルトヘイト(人種の隔離)による、ひとつの人種によるほかの人種へのたとえがたい圧力、激しい不平等と人権蹂躙。抑圧された人種の人権回復への固い意志と信念。政治犯とされて終身刑を受ける過酷さ、27年の重労働と忍耐の重さ。そして、鉄格子のむこうへ希望をつなぎとめる力と。
イギリスでは「マンデラ解放」のためのコンサートがいくつも開かれた。Simple Mindsの「Mandela Day」はマンデラが70歳の誕生日の1988年と、解放された1990年に行われ、コンサートは11時間も続いたという。
ネルソン・マンデラは、チベットのダライラマ、ローマ法王のような精神世界のトップにも会った。カダフィー、アラファト、ホメイニ、イギリスのダイアナ、マイケル・ジャクソン・・・。暗黒大陸アフリカ、ということばは、南アフリカがこうしてアパルトヘイトを解消(人種の垣根を解消)し、マンデラのカリスマ的な人柄とともに、忍耐と情熱と時間と、獲得されなければならなかった人間の根本の平等と平和という名の下に、大きく影が薄らいだようにすら見える。その半生が「政治犯」という汚名のために監獄で費やされたことで、アメリカの大統領が二人、クリントンとオバマがその監獄の中に入り、頭を垂れてマンデラの苦しい獄中生活に思いをはせたというその事実は、いったい何を物語るものなのか。
奇しくも、2013年12月6日、逝去した「人権のシンボル」マンデラの人生を世界中が賞賛する同じ日に、日本の国会は特別秘密保全法という、人権を危うくし平和を無視して国を暗黒に導きいれる法律を強行採決した。秘密の定義もなされないまま国が秘密と決めたものをほかへ暴露しただけで10年の懲役という「過ち」を犯す可能性を強く持つ法を立法してしまうなどとは、なんという皮肉な相反する世界のありかただろうか。汚れた国会の行く末には、アメリカの大統領はおろか誰も頭を下げる者は居ない。今の日本という国を情けないと思うのは、はたして私だけではないはずだ。
マンデラの生涯を描いた映画は2013年12月18日、フランスで公開予定。
(S.H.)
(以下、1990年のSimple Minds、マンデラ・デイ・コンサートから)