アンドレ・マルロー

1952年、美術批評家でありジャーナリストのフランク・エルガーがアンドレ・マルローにインタビューをし、マルローの口から早くも国の文化指導の立場にあるべき人間の資質を浮き彫りにした貴重な文面。

 

アンドレ・マルローのインタヴュー、『カルフール』1952年3月26日、No.393から(Frank Elgarとの対話)

「国は芸術を統率するためにあるのではなく、芸術に仕えるためにある」


Q: Frank Elgar   A: André Malraux

 

Q: どういった理由で、またどういった方向から、小説家のあなたが芸術について書くに至ったのですか?

A: 小説を書いていますが、私は小説家ではありません。子供のときから芸術の中で育っているので、彫刻や絵画のない国は、私にとっては物言わぬ国に等しい。

我々の世紀に発展していく文明というのは、ヨーロッパの終焉のそれであり、過去の現実の遺産のそれでなければならないと思う。私の本当の課題は、私の身近な分野で人間像を新しく捉えなおすことにあります。

Q: 美術館(博物館:musées)の発展は望ましいことなのでしょうか?むしろ、危険なのでは?

美術(博物)館の存在は、芸術の退廃でありわれわれの創造能力の衰弱化の兆候をしめすものではないですか?文明の最盛期というのは、ものを保存することより、新しいものを創造することに力を注ぐものです。芸術文化を一般化し敷衍することと、芸術作品の理解や芸術の享受によって人間の資質が向上していくのとは、同時に並行してできるものではないとお思いではありませんか。

A: 文明の最盛期とは何をさして言うのでしょうか?「超越(transcendance)の時代」のことでしょう。つまり、時代を超越するもので歴史を形成しようとするならば、博物館を作らざるをえません。博物館は墓場ではなく、激烈な問いかけの場です。カテドラルの骸なのではなくて、カテドラルを引き継ぐものなのです。

我々の芸術は美術館から生まれ、弁証法そのものによって発展を促されてきたのです。美術館のおかげで、新しい形への興味を失うことなく、過去が残した形を知ることができる。

Q: ヴェルサイユを救え、セーヴルを救え、としきりに人は言いますが、あなたも同意見ですか? これは、われわれが新しいヴェルサイユや新しいセーヴルを建造する能力がないからでしょう? 外国のツーリストたちは、フランスはヴェルサイユやルーヴルやカテドラルやマレー地区の建造物やらロワールの城くらいしか見せられないと思っている。

我々の世代は、これらに匹敵するようなものを作ることはできないのですか?

A: ヴェルサイユを救わなければならないのは当然です。アメリカのようには新しい建物を作ることはできないし、新しいベルサイユを作ることもできないでしょう。

(略)

もしツーリストにパリを見せるなら、この1世紀の間に世界中を魅了したフランスの絵画がこの町のおかげで生まれたことを自分の目で見ることができるでしょう。

Q:  私たちの公共生活を見ると、建物の壁画やモニュメント、紙幣や切手のデザイン、カレンダーや日用品などどれもこれも悪趣味で下卑ている。こういう状況で、これだけ芸術家が豊富な国でありながら、 フランスが最も軽蔑すべき国でもある理由を、どう説明されますか?

A: 確かに、好感を持てる趣味とは言えないことは嘆かざるをえません。ただポスターだけは日本を除いた他の国から秀でていて自慢できます。日本のポスターデザインにはフランスが恩恵を被っていますから。

フランスが絵画の揺るぎない王座を獲得してから、嘆かわしい街並みに気づかされました。パリの郊外などはヨーロッパ一醜悪です。しかし、醜悪さは、美の退廃ではないし美の真逆でもない。これは近代芸術と共に現れたものです。近代以前は存在していなかった。セザンヌとブーグローは一つの同じ文明から割れて出てきたものです。ブーグローの時代にはシャルトルの巨匠もミケランジェロもいなかった。また彼はセザンヌとも全く異なっていた。芸術がその機能を変えたのです。

Q:  ということで、私たちは民主議会において、国に芸術の役割を課すとしたらどのようなものであるべきか、どのように方向づけをしていくべきか、という問題へたどり着いたと思います。

この政体のなかで、公明正大かつ、知的で国民の芸術生活に炯眼を備えた管理(direction)が可能だとお思いですか?可能だとしたら、どういう条件下ならそれを政策として打ち出せるのでしょうか?

A: なんてことだ! 国は、芸術を方向付けてはならない! 方向付けをしたら、芸術の名を被ったほかのものになってしまう、たとえばロシアが、人々を煽動しようとして芸術をその政治プロパガンダの道具として使ったように。(略)

また、芸術を芸術として管理していると嘯くものもいるが、規律を必要とするこのような管理はナンセンスである。我々の時代の基本的な矛盾は、インスティテューションにあり、美術学校やデッサン教育や、ローマ賞などのように過去の生き残りに基を置いている制度です。

Q: でも、国の介入がしばしば必要だとは思いませんか? もし必要だとしたら、いつ?

A: 美術館、展覧会、そして発注と、この順序で、きちんと規定された役割においてなされるべきです。

国は、過去の最高時と同レベルの能力の高い高官を置いており、芸術においては昔より良いと思われ、彼らはなべて適性があり自由な精神を持ちつつ、芸術のために奉仕しています。ハッカンや、プチ・パレのMMジョジャール、ジョルジュ・サール、アンドレ・シャンソンの貢献は素晴らしい。国立美術館諮問院の機動性も忘れてはならない。行政的な問題も解決し、少しながらも支援金が出ることになった。国は、芸術のために適材適所の人材を得た。(略)

要約すれば、「国は芸術を統率するためにあるのではなく、芸術に仕えるように仕向けられている。よって国は、仕える役割を理解している人間に、仕事を託している。」

Q: 美術省は我々の芸術生活に幸福な影響をもたらすと思いますか?

A: 省に情熱があれば、ほかからの障害にあまり出会わないでしょう。芸術は敵を持ちません。近代芸術はさらさら危険ではない。

Q: 仮に、この芸術省の大臣になったら、一番最初に何をしますか?

A: まず、わたしは大臣の候補ではありません。これはほかの誰でもよくやってのけられるものだと思います。

まず、ルーヴルを世界一の美術館に再建することは不可能ではないですね。つまり、現在ルーヴルの財務省が入っている建物をルーヴルに返還帰属させて拡張し、国家の収蔵品を充実させることです。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやら、アングルやらゴヤやらです。

フランスの傑作のレプリカを100点作って、地方の美術館に配布したいと思います。人類博物館のアジア部門を国の美術館連盟に入れることも不可欠です。チュイルリーやリュクサンブールの発掘。ロダンやマイヨールやルノワールの彫刻を見合った場所に置かなければならないし。どうして、チュイルリー公園を青空美術館にしようとしないんでしょうか? 順化園の建物を芸術と大衆伝統美術館をつなげて、中世、17、18世紀等、時代別の展示を展開することもいいですね。また、最高弁務官の美術局を観光局に付属させるのも私の考えですが、これは当該局の決議が必要です。

Q: この方針を方向付ける思想を明確にするとすれば、あなたの国に対する警戒心は、あなたの人間に対する信頼度と同じくらい大きいということができます。

A: 国の方策は、より多くのフランス人が実際の芸術に触れるように努力をすることです。アマチュアもプロのクリエーターも、現実に本物の作品が発信しているものに触れなければ存在しない。(略)「デモクラシー」は、ここでは、「より多くの人間により幅広い偉大な作品を見られるようにすること」なのです。

(訳 Shigeko Hirakawa 2002-2016)

 

 

 


André Malraux Ministre p.323 Frank Elgarとの対話”Les Voix du silence”

注:(略)部分は、エリプテイックな表現や引用を一行、あるいは数語、はしょっている。