フランスから―環境とアートのブログ

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アンドレ・マルロー 2

アンドレ・マルロー 2

1952年、美術批評家でありジャーナリストのフランク・エルガーがアンドレ・マルローにインタビューをし、マルローの口から早くも国の文化指導の立場にあるべき人間の資質を浮き彫りにした貴重な文面。

なぜ環境問題か、というはなし その2

環境はそこで生きていく個人に大きく影響する問題であるが、一方で、国レベル、世界レベルで考え作り出す世界観の問題でもある。

れきしの点と線 - デコンサントラシオンと文化

1969年、文化の地方分権化の始まり。 La Déconcentration – ラ・デコンサントラシオン: 文化省の中央集権的政治および事務的構造を、地域に《地域文化振興局- Directions régionales des affaires culturelles/ DRAC》を作ることによって、文化行政が地域へ出現し発展するよう発想されたもので、アンドレ・マルローによって1969年、地域3箇所に初めて地域文化振興局がおかれた。 この文化省のブランチDRACの存在によって、文化省は地域へアンテナを伸ばすことができ、かつ地域議会の文化予算に対応する予算の注入への配慮などの、中央と地域のバランスがとれていくことが期待された。 フランス国内は22の地域に分割されている。それを考えると、マルロー時代、3箇所のDRAC設置は、まったくのはじめの一歩というべき象徴的な出来事というだけにとどまり、全国に文化省の力を敷衍するまでにはいたらなかった。 1976年(ヴァレリー・ジスカール=デスタン大統領、ジャック・シラク首相)、Françoise Giroud(フランソワーズ・ジルー)が文化付閣外大臣(文化は省から閣外の局レベルに格下げされ、大臣は閣外大臣と呼ばれる)となり、短い任期中、地域文化振興局DRACの設置を制度化する条例を制定した。 ジスカール=デスタンはヨーロッパ共同体へ傾倒し、シラクはデコンサントラシオンを理由に、文化省を閣外に落としたという。財政の地方分散で文化も地域の采配に任せたという話だが、地域は自立して活動を行うまでにはいたらなかった。フランソワーズ・ジルーはこの政権下で女性の解放、平等化などへ尽力し(1974-76)、文化への思い入れのある政治家の希少なこの時期の政府の中で、文化の夢に「固執して」DRACの条例化をすすめた(1976-77)という。 La Décentralisation – ラ・デサントラリザシオン: 1982年83年(ミッテラン大統領、モロワ首相)制定の地方分権法。中央の権威や能力を地方へ分散させ、地方共同体との平衡を図る法律。この法律は政治司法、産業その他全般にわたるもので、文化も当然ここに含まれる。文化において80年代は、政府の積極策と地方共同体の熱意が功を奏し意思疎通がうまくいっていた時代であった。また文化省から地域へ配分される予算の増加とともに、DRACの体制が強化された。 1992年2月6日および7月1日、行政管区におけるデサントラリザシオン憲章設立。地方へ分散した権威に活動の権限を優先して与えることを謳ったもので、文化もこの優先権の逆転により、大いに性格が再検討され塗り替えらることになった。 したがって文化においてラング文相時代は、中央の文化政策を地域で行い地方共同体の世話をするエキスパートの役を担うというDRACの機構が実質的に形作られた時代ということができる。 (Extraits de: “L’Etat et la culture en France au xxe siècle”  Philippe Poirrier, “Le lancement de la déconcentration” André-Hubert Mesnard)

現代文化、れきしの点と線 - 国の役割

1952年、『沈黙の声』に出版されたアンドレ・マルロー/ André Marlauxのインタビューから。インタビュアー 、フランク・エルガー/ Frank Elgar。 E: ミュージアム(美術館・博物館)が発展することは望ましいですか?かえって、危険なのではないですか? ミュージアムは、芸術の退廃の兆候で、私たちの創造する力が衰退していることをさししめしているのではないでしょうか? 文明の偉大な時代には、 新しい形を創り出すことのほうが先で、過去のものの保存にはあまり配慮をしません。文化を一般にひろめることは、芸術を喜びとして感じたリ、傑作を理解したりする人間の才能の増大に結びつくことにはまったくならない、とはお思いになりませんか? M: 「偉大な時代」とは、何をさしておっしゃっているのでしょう?隆盛の時代のことでしょうね。卓越した時代が歴史を構成するとすれば、当然ミュージアムは可避できません。ミュージアムは墓場などではなく、激しい問いかけです。・・・。私たちの芸術はミュージアムから生まれ、ある意味でその論理によって発展しています。ミュージアムのおかげで過去の形を知ることができるのであって、今の私たちが新しい創造をすることとはまったく抵触するものではありません。 ・・・・・ E: さて、民主議会制度において、国の芸術的な役割とはいったいどうあらなければならないかという問題にアプローチしましょう。 こうした政体の中で、正当で理性的かつ洞察力を備えた国民の芸術生活のための執行部をつくることが可能だとお思いになりますか? もし可能だとお考えでしたら、いったいどのような条件のなかで、 そうした政策が行われなければならないのでしょうか? M: いやはや!国は芸術に、いっさい方向付けをしたりしません! 芸術に方向付けをする、とすれば、それは芸術ではなくて芸術に名を借りたほかのものになってしまいます。たとえばロシアに見たように、芸術はプロパガンダや国民を扇動するのに利用されました。・・・・。 芸術を芸術として指導する、ということをいいたいならば、それはまったく意味を成しません。現代芸術は芸術の執行部など必要としていませんから。指導というのは美術学校の段階のものでしかありません。 E: それでも、国が必要とされる場合がありますよね?もし必要とされるなら、どういった場合ですか? M: 国に負わされた使命は、美術館と展覧会、そしてコミッションです。・・・・。 行政的な問題を解く機構が薄っぺらすぎ、また支援体制も弱い。国は芸術を行っている人たちにみあった力をつけたものでなければなりません。 要約するならば、国は芸術に方向付けをしたり芸術を指導したりするためにあるのではなく、芸術に仕えるために存在します。 ・・・・・ E: この計画の主軸となる思想を概観すると、国に対するあなたの不信感は、あなたの人間への信頼感と同じくらい大きいように見受けられます。 M: 国は、現実に芸術に触れることのできるフランス人にむけて、できるだけ多くの人が芸術に触れられるよう努力をしなければなりません。 私たちは注文を受けて仕事をするようなクリエーターでもアマチュアでもありませんが、芸術を真の表現のなかで観ることができなければ、それ以下の人間になってしまいます。民主主義とは、ここでは、より大多数の人間がより広範囲の芸術作品を見ることができる政体のことなのです。 このインタビューが国と芸術の問題をさいしょに明解にしたもので、将来の政策の下書きとなった。

ル・グラン・ルーブル・プロジェクトの発端、マルローの一言

1952年、『沈黙の声』に出版されたアンドレ・マルロー/ André Marlauxのインタビューから。インタビュアー 、フランク・エルガー/ Frank Elgar。マルローが文化大臣になる7年前。 E: もし、美術大臣になられるとして、真っ先に実行に移されたいことは何ですか? M: まず、私は大臣候補ではありませんし、また私でなくても誰でもできることでしょうが、 ルーブル美術館を世界一の美術館に仕立て上げることでしょう。現在、財務省が使っている建物(リシュリュー翼)を美術館のために回収することです。それから、地方に散らばっている傑作を集合させるのです。・・・ 1981年9月26日、フランソワ・ミッテラン大統領によって、《ル・グラン・ルーブル》プロジェクトが発令された。リシュリュー翼の財務省をほかの敷地に移し、ルーブル全体を美術館に改造する大計画の始まりとなる。 セーヌ川を隔ててルーブルの対岸(つまり今のオルセー美術館がある辺り)に位置していた財務省は、1871年パリ・コミューンで焼き討ちにあい、リシュリュー翼へ入居。110年ぶりのルーブルからの撤去となった。新財務省はベルシーに建設されている。