奴隷解放記念日である5月10日金曜日、フランソワ・オーランド大統領がトビラ法務大臣、フィリペッティ文化大臣らとともに上院のあるリュクサンブール庭園の記念碑に花束をささげ、スピーチを行った。

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過去におけるフランスのアフリカの植民地化とアフリカ黒人の捕縛と売買に対する被害者の損害賠償請求が近年行われている。フランソワ・オーランドはフランスが行ってきた長年の搾取に対する賠償請求についてこのように述べた。「賠償すべき被害高があるでしょうが、支払ったからといって歴史が終わるでしょうか? いいえ、決して終わりにはなりません」。黒人協会代表委員会Le Conseil représentatif des associations noires (Cran)は、もちろん聞く耳を持たない。「奴隷で利益を得た」という理由でフランス預金供託公庫を訴追した。奴隷制廃止法が確立して160年経ってのことである。

またオーランド大統領はスピーチで、「人身売買の記念碑の制作者に感謝し、1685年の黒人法を決して忘ることはないだろう」とし、2001年に奴隷制を人権を侵害する犯罪と規定する法律を立てた、現在は法務大臣に服務中のクリスチーヌ・トビラを賞賛した。リュクサンブール公園では奴隷解放を段階別に示した一連の音響付パネルの展示が開始されている。(la croix 10/5/13)

[ナント市、フランス最大の黒人奴隷商の港]

いくつか象徴的な奴隷商の町の名前を列挙し、オーランド大統領は、「グアドループのポワント・ア・ピトルの奴隷に関しての世界最大のメモリアル建造を国が受け持つ」とした。

フランスでは、黒人奴隷商の町として一番大きな町がナント市である。15世紀から19世紀まで、ヨーロッパではリバプール、ロンドン、ブリストル、ナント、ラ・ロシェル、ボルドー、アムステルダム、リスボンが奴隷商の町だった。18世紀、ナントはフランスで最大の奴隷商の町となり、アマチュア、銀行家、工場主や商人、造船業者や船乗りなどみんながこぞって多かれ少なかれそこから収入を得た。

ナントから布やアルコールを積載して出航した商船は、アフリカへ南下し持ってきた商品と引き換えに捕縛された黒人を積んで、南アメリカのアンティイ諸島へ行き、南国の砂糖やカカオ、タバコと黒人を交換してフランスへ戻ってくるという航路をたどった。奴隷商は1703年から1831年まで続き、その間1756船の奴隷船が往来したという。この数はフランスの黒人奴隷売買の数の43%にも上り、黒人の数は45万人(2006年のTV取材では60万人)で、実に、18世紀欧州の奴隷売買総数600万人の7.5%というと値なる。(商業航路:下の図参照)

したがって黒人は商品同様に扱われたのではあるが、西アフリカから南アメリカへ移送されたのであって、ナントへはたどり着いてはいない。

黒人商Les traites négrièresは、traite des Nègres (ネグロ商)とか traite des Noirsとよばれ、主に西アフリカの人々を数世紀にわたり何百万人も奴隷化して「商業」のための犠牲にした事実を指す。黒人奴隷には次のような特色がある。犠牲者は黒人であったこと、黒人を調達するネットワークや組織に依存した商業だったこと、捕縛されたところと働くところが遠隔地にあったこと、政治団体が奴隷売買による利益や個人の所有物として承認していたこと等々。奴隷売買に黒人が必要だが、たとえば19世紀のアメリカでは商業目的ではない奴隷が存在していた。こうした事実のうちに現在の人身売買へつながる部分がある。

フランス-アフリカ-アメリカの三角商業路

Château des ducs de Bretagne ブルターニュ、男爵城ミュージアム、ナント市黒人商メモリアル・ミュージアム]

ミュージアムの第3室は、18世紀のナントで盛んに行われた商業の経済図が説明されている。市が全面的にサポートして黒人商を盛んにしたナントは、繁栄して、一世紀で人口を二倍にするほどだった。フランス革命で、人権宣言などの「平等」の概念の影響で、奴隷取引に対する見方も変化し、商人たちの懸念が起きる。

ミュージアムの住所:4 place Marc-Elder, 44 000 Nantes
http://www.chateau-nantes.fr/ 

奴隷

1848年、長い戦いの挙句、奴隷制の廃止法案が可決する。ナントの町が新しいページを開いたのであるが、後ろめたさからか沈黙が続き忘れ去られる方向へむかった。歴史を直視しようというナントの町の意識的な働きかけは1990年を待たなければならない。« Les Anneaux de la Mémoire 記憶の円環»というこれらのフランスの歴史を分析した展覧会が開催され、40万人以上が入場した。以来20年をかけて、今日から明日に向けて、ナントは歴史の記憶の分析に真正面から取り組み、人権世界フォーラムや世界中の協会の支援を得て、ナント市歴史博物館を開館し、奴隷解放のために闘い、また戦い続けている人々のために2012年、記念碑を建造するにいたった。

ina archives 2006 INAのTVアーカイブから、2006年5月10日、奴隷制廃止記念日のフランス2TVニュース

 

My opinion: アフリカ黒人が奴隷として扱われた時期は非常に長い。西洋人が未開国を植民地にし、物品の略奪のみならず人身を強奪し人を一生束縛をするという図式を長い間描き続けてきた。19世紀に奴隷解放がなされても、21世紀の今日も人種の階級が厳然としている感じなのは、どうやっても拭いきれない。殊に、フランスで驚きなのは、2001年にようやくフランス政府が奴隷制を人権を侵害する「罪」であるという法律を作ったことだ。21世紀になるまで、人を奴隷にして罰せられるということがなかったことになるのか。60万人だか45万人だかの黒人を、南国のカカオやタバコや砂糖に換えて儲けたフランス人たち。今の社会の人種差別が解消するときが来るのかどうかよくわからないが、大本は西洋人の暴力的な侵略なわけだから、その儲けた分だか、60万人の人間の代償だかよくわからないが、これを金銭換算して、黒人協会が賠償金をフランスに請求している、というのも、当たり前のような気がしている。過去の歴史は、どうしても人々の社会や無意識の記憶の中に染み付いてしまっているから、その染みを取り除かなければならない。単に肌の色の問題なのではないのだ。常に自分の目下に居る人種、という染みは社会のあちこちに飛び火している。飛び火のそこここへ大いに意識を向けるという、そんな「努力」の話を、ナント市を例にしているというニュースだった。後ろめたい過去には背中を向ける人間も多々いるようだが、こうした努力がなければ本当の進歩はありえない。(S.H.)