2003年、ちょうどフランスで作家活動をし始めてから20年目。よその国の文化の中で制作をし活動をするたびに露になる問題を、自分なりにバイカルチャー(二重文化)と呼んで浮き彫りにし、欧州大陸を出てもうひとつの大陸アメリカでこの問題を洗いなおそうと試みたことがあった。日本人がヨーロッパからアメリカ文化を見るという稀ながらもほんのナノサイズの視点の文章だが、その中に引き合いに出したキーワードとの接触は13年後の今も少なからず続いている。現在グランパレ国立ギャラリーで行われているジャン=ユーベール・マルタン企画の「カランボラージュ」展で思い起こすくだりを、2003年の研修直後のリポートから引用してみることにした。
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[平川滋子、リポート2004、P47-]
文化のグローバリゼーション、二つの観方…
歴史の縦糸と横糸

21世紀が明けた日本では、経済のグローバリゼーションに向けて沸騰していたが、旧大陸欧州はアメリカが強制するグローバリゼーションに座り込みをして警官隊ともみ合ってでも反対しようとする国が続出し、欧州からは、世界はまさに二つに割れたようなありさまにみえた。

2003年11月17日、ニューヨークでは折よくマンハッタンのスイス・インスティテュートで、パリの現代アート・センター、パレ・ド・トーキョーのディレクターの一人、ニコラ・ブリオー氏が招かれて、グローバリゼーションをテーマにレクチャーをした。パリの若手キュレーターが考えるグローバリゼーションと、それに対するニューヨークのリアクションを見る好機に恵まれたというわけである。ちょうどこのとき、アメリカの美術雑誌『ARTFORUM –International』が同11月発行の特集号「グローバリズム」で、キュレーターとアーティスト双方のグローバリゼーションについての観方を掲載しており、スイス・インスティテュートのレクチャーとつき合わせて、今日の話題の中心が、文化、芸術のグローバリゼーションにあることをあらためて掌握することになった。 フランスのニコラ・ブリオー氏は、文化のグローバリゼーションを、1989年、パリのポンピドー・センター国立近代美術館およびヴィレットで開催された『大地の魔術師展』を一大契機に始まったとしており、同様に雑誌『ARTFORUM –International』も見解を一にしているところを見ると、フランスにおいてもアメリカにおいてもすでにこの展覧会の歴史的価値付けがなされているらしい。

『大地の魔術師展』とは、それまでの西洋中心主義の伝統を根底からひっくり返し、欧米以外のアジア、オセアニア、アフリカ、南米などの第三国の国々のアートを中心に選抜された作品を集めて大々的に行われた展覧会である。芸術文化の中心に西洋を置いた芸術観にピリオドを打ち、それまで眼を向けたこともなかった第三世界のアートに西洋と同等の価値を認めよう、という全世界への呼びかけともいえる主旨を持ったものであった*。

〔*この主旨は、1989年展覧会に寄せたジャン=ユーベール・マルタンの文章(美術月刊誌『Art Press』やポンピドー・センター国立近代美術館展覧会案内)のうろ覚えである。〕

奇しくもこの1989年という年は、歴史の大転換の年である。中国では天安門事件が起きた。民主化に積極的だった胡耀邦(こようほう、フー・ヤオパン)が死亡したのをきっかけに4月から学生による民主化推進運動が高まり、学生を中心としたデモ隊が天安門に座り込んで一般市民を取り込み100万人にも膨れ上がった。中国政府はこれに対し戒厳令を敷いたが収まらず、6月4日未明、完全武装の人民解放軍の装甲車部隊が北京に入城し、無差別発砲でこれらデモ隊を薙ぎ倒し虐殺して民主化運動を武力鎮圧した。

一方、東欧では国境に張り巡らされた鉄条網を乗り越えて西へ逃亡する東欧人が急増し続け、東欧各国政治の改革への動きが頻繁となり、ソビエト連邦共和国の改革派ゴルバチョフが精力的に世界中を動き回ったペレストロイカ政策の最中の11月、人々の手でベルリンの壁が取り壊され、長きに亘る東西の冷戦の終結を象徴することになった。 ソビエト連邦・東欧、中国、いずれも旧共産圏の内部から民主化への大きな希求が爆発する壮烈さを見せ、政治改革へ人々を熱狂的に動かしたが、改革に大きく歩を進めた東欧諸国と、武力鎮圧で民主化運動を圧殺した中国とが大きな対比を見せたのを世界中が目撃した。

フランスは1989年、春から社会党政府のロカール首相が、フランス旧植民地のあるオセアニアとアフリカ諸国との国交改善に取り掛かり、地球を六周するほどの旅程を組んでいる。欧州の東と西の関係が著しい進展をするさなかのフランスの外交はむしろ、他人(有色人種)の国を飲み込んで蹂躙した自らの歴史の問題に向き合い、これを「南北問題」と呼んで、フランスが旧植民地と対等となるべき「ポスト・コロニアリズム」の時代に向かって動こうとしていた。

旧植民地問題はしたがって、フランスの民主主義のリアルタイムの課題であった。フランスのロカール首相に先駆けて、国立近代美術館のキュレーター、ジャン=ユベール・マルタン氏はこれらの国をアートとアーティストを探して駆け回った。ジャン=ユベール・マルタン氏には芸術も政治同様、ポスト・コロニアリズム(脱植民地化)が新しい時代の方向としてダブって見えていたに違いない。 また、これまでまったく光の当たらなかった未踏の地域のアートに新たな価値付けをすることで、戦後の世界に君臨していたアメリカの現代アートの呪縛から芸術を改めて解き放つことが可能であろうというビジョンもあったに違いない。芸術の中心は欧州からアメリカへ、さらに第三世界の国々へ。長い歴史の上からみれば文化の中心は世界を回っていくのである。 ヨーロッパの芸術哲学は、政治の動向に敏感に反応し、しばしば政治に先駆ける。

マンハッタンのスイス・インスティテュートでニコラ・ブリオー氏は、新しいビジョンを全世界に伝達した1989年の展覧会『大地の魔術師展』を現今のグローバリゼーションのきっかけとする一方で、物質から非物質へつまりバーチャル世界の出現という現代の表層の転換には、80年代初頭、仏哲学者フランソワ・レオタールが提唱した「ポスト・モダニズム」の思想が予言した方法論がみられると断じた。つまり、モノから概念へ、非物語性から物語性へ、過去のものを転用して新しい概念との合成へ。今日は、それに輪をかけて、コンピュータとデジタル化で、概念化と非物質化が一気に進行し、アートも作品において、映像化、図式化、数字やグラフの応用、関係(リンク)化あるいはインターアクティブ・アート、サウンド・インスタレーションなどなど、非物質化されたアートが世界中を駆け巡る、新たなアートのボーダレス時代の真只中にある。

スイス・インスティテュートではひとつの気になるやり取りがあった。グローバリゼーションについて、「経済のグローバリゼーションと文化のグローバリゼーションは、見分けるべき二つの問題」、とヨーロッパから来たブリオー氏が述べたとき、会場のアメリカ人からは「本当に経済と文化のグローバリゼーションを分けて考えることができるのか?」という質問が飛んだのである。ここにおける、「経済と文化を分けて考えるべきである」という立場と、それに対して疑問を投げかけ「経済のグローバリゼーションは文化とは切り離せない」とする意見。この離反は、それぞれが背景にもつ国、つまり、フランスとアメリカの相違を反映しているということができるのではないか。

欧州はそれぞれの国の独立経済流通を守ることで、特殊な国の産業を保護しようとする向きが強く、国の特殊性を保つことがひいては文化の特殊性も保たれると考えるから経済のグローバリゼーションには難色を示す国が多かった。ことにフランスは、経済政策においてはアメリカと対極をなすといってよく、90年代中半までほとんどの大企業は国が運営する公社であった。会社集団の頂点にあるのは国である。社長が一人しかいない会社集団に自由経済競争は存在しない。組織と統制があるのみというに等しい。国は、国内の経済保護を中心に考えるあまり、外資産業や外国製品の参入を極度に制限し、物価は従って万年高値安定、国民は低賃金に汲々としている時代が長かった。物事が立ちゆかなるとすべては国との交渉であるからストライキをする。国内にあっても企業が争って製品のダンピングをすることすらまれである。

日本では1964年の東京オリンピックを契機に国民がカラーテレビへ総出で移行したのに対し、20年もたった80年代のフランスはまだ人口の70%が白黒テレビを見ていて愕然とした。その白黒テレビさえ日本のカラーテレビの二倍の値段で巷で売られていたのである。カラーテレビの機種も選択肢がなかったことはいうまでもない。 アメリカと並行に自由競争の経済を目指した日本は、こうしたフランスの厳重な経済政策と相容れる部分は小さく、ようやく開放された窓から見るフランスはフランスの実態から大きく離れたものになるしかなかった。フランス社会の国民の裸の現状について、城壁がパリの街を巡るように、厚い壁を国境に立てられたまま内側をほとんど知らされず、オートクチュールやフランス料理ばかりがフランスの顔になってしまったのはこうした外交の現実からくる見える部分の局所拡大ということになるだろう。フランスが頑迷なほどに閉鎖的で側からは判りにくい国であったのも、日本がこういったフランスの現実に疎かったのも、根底には相互の経済政策ひいては国を作る根本理念の背理が要因にあったからと思われる。

われわれは歴史の一事実を見逃してはいないだろうか。フランスは、1870年のパリ・コミューンで世界初のプロレタリア政権を樹立したほどの国である。ドイツの経済学者カール・マルクスは、『資本論第一巻』を刊行したばかりで、このフランスの市民戦争について本を書いた。当時の芸術のアヴァンギャルド、リアリズムや印象派の絵描きたちはパリ・コミューンに加担し、またその後もクレマンソー首相のような急進社会主義の政治家に支えられて活動を展開した。過去、社会主義精神がどの国よりも先に実質の生活の中に浸透して生きたのは、ひょっとしたらフランスだったのではないか。練り上げられた思想を基盤に、フランスの政治は当然のように経済の上に立ち、市民生活(福祉)の上に立ち、文化の上にも立って、時代に応じて国を整理整頓してきたのである。

先に述べたフランスの現代文化政策は、1980年代以降の国の現代アートを盛り立てる立役者になったのはいうまでもないが、青少年の芸術教育から職業芸術家の制作援助、そしてリタイヤした芸術家にいたるまで、芸術家を社会の構成員としてまた人間として一生を見直した社会福祉体系がきれいにかぶさった形であることに思い当たるのである。

「3ヶ月居れば誰でもアメリカ人」と「フランスの最初の10年、タダの10年」という表現の大きな差を、アメリカの話の最初に引いた。自由の国アメリカは、外からやってくるものがその開拓精神や野望を発展させていく自由までも受け入れてしまう鷹揚さをこの表現は言い当てていて妙である。一方のフランスの「タダの10年」は、自由競争社会から来たものがその自由をグニャリと変形させられてきれいに整理整頓された四角四面の社会へ組み込まれることの困難の大きさを表現したのではなかったか。 しかるに、「フランスのタダの10年」はここ数年ほとんど聞かれなくなった。フランスは旧弊な社会構造を緩め、世界の激変を受け入れなければならない日がいつかやってくることを予感して、すでに80年代からもうひとつの構造を欧州統合に求めて奔走している。国境を欧州に開くことで、フランスもアメリカや日本の経済圏と並ぶべく、今度はフランスが自分の体を折るようにして制度を改め、新しい状況へ対処するノウハウを身につけてこなければならなかった。つまり、フランスという国自身が世界経済への参画のために、この「10年」をかけて身を折り、大きく変貌したということができるのである。

「経済のグローバリゼーションと文化のグローバリゼーションは、識別すべき二つの問題」という立場のブリオー氏と、「本当に経済と文化のグローバリゼーションを分けることができるのか(あるいは、一丸に進むものではないのか)?」というこれに対するアメリカのアーティストの懐疑的質問の離反はしたがって、それぞれの国の環境の違いに発露していたといえる。…(引用了)

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ニコラ・ブリオー(Nicolas Bourriaud):2000年から2006年までジェローム・サンスとともにパレ・ド・トーキョーのディレクター。2011年から2015年まで、パリ国立高等美術学校学長。批評家、キュレーター。
・引用文章は、独立して理解できるように分かりやすく変更した箇所があります。(S.H.)