ルーアン・アンプレッショネ展の周辺
7月3日総合開催予定のルーアン・アンプレッショネ展は、ノルマンディー・アンプレッショニスト展と共同のプレス・コミュニケーションを行っている。夏をとおして、ゴーモン・パテ映画館全館で、ノルマンディー・アンプレッショニスト展の総合宣伝ビデオが上映されるほか、シャンゼリゼやパリ・プラージュで写真展が開催されルーアン・アンプレッショネがパリでは写真で見られる予定だ。
現代文化、れきしの点と線 - ミリタンティズム
20世紀のアーティスト・イン・レジデンスをレジデンシーの氷河時代といったが、アーティスト・イン・レジデンスに限らずこの時代の現代アート政策全体の閉鎖性は、今のフランスの開けた現代アートの現場を考えると、おそらく必要不可欠の昆虫で言えばサナギの時代だったのだろうと思う。フランスが自分の現代アートの方向性を真剣に試行錯誤していた時代で、ほかからの異物の因子の浸入もすみずみまでコントロールしなければならなかった。 ちょっと彼らの文化の歴史を振り返ってみると、史上初の文化省設立はアンドレ・マルローが担当して1959年に実現した。10年続いたのだが、その間に実行に移せた現代文化プランはメゾン・ド・ラ・キュルチュール(文化会館)を全国で三軒建てただけにとどまった。予算がほとんど出なかったのだ。しかしインテレクチュアルのマルローとマルローを支える知識集団が、文化について、またこれからの現代文化について検討しつづけ、夢を明文化した。明文化したものは文化省の貴重な基本概念となって今まで生き続けることになった。その主旨のひとつは、「いままで特権階級にのみアクセスが可能であった芸術を一般市民のすみずみにまで鑑賞可能なものにしたい」、そのための文化政策が必要だというものであった。 1970年代、ポンピドーのあとを継いだジスカール・デスタン政権は、文化省を局程度に格下げした。もともと多くなかった文化予算はこうして大幅削減した。またこの時期はオイル・ショックで世界中が恐慌をきたし、フランスもどん底を味わっている。 社会疲弊を苦しみぬいたフランスは、1981年の大統領選挙で社会党のミッテランを選んだ。文化省の再建は、このミッテラン政権下で行われた。確か、この80年代の文化省は、10個の庁で構成されていたように記憶している。文化環境調査、音楽・ダンス、劇場、文学、アーカイブ、遺跡、映画、美術館、文化教育、そして造形芸術庁の10個である。造形芸術庁は現代芸術の専門の庁として、美術館からも遺跡管理からも、また美術教育からも独立した機構を初めて確立した。独自の機構の確立とは、機構独自の思想の確立のことである。現代芸術のインフラストラクチャー作りがこうして始まった。造形芸術庁のもとで、現代アーティストの作品買い上げ制度、アトリエ建設、1%プロジェクト、アーティスト・イン・レジデンス、支援金制度などが少しずつ推し進められた。地方への敷衍は、各地域に文化振興局を配置して文化省からの援助金をすみずみの文化活動へ注ぎ込めるようにし、また作品買い上げも地域ごとに組織をつくり、その地域のアーティストの作品を中心に買い上げる組織を作りはじめた。経済的に厳しかった70年代からの立ち上がりでもあり、また、新しい機構作りを並行して行いながらの編成である。82年に文化予算を倍増したものの、思うところへ思う予算を回すにはどうしても時間がかかった。勢いいつものように、思想のほうが先行せざるを得なかった。まだ何も実現しないうちに肝心の思想が潰れてはいけない。必要以外のものから新しい組織を防衛する必要もあっただろう。おそらくそんな時代に、私などは彼らの鉄の壁のような閉鎖性に向かい合っていたように思う。 事実、文化省再建は決して順調にはいかず、再建後5年も経たない1986年、国民議会議員選挙で社会党が敗退し、社会党のミッテランを大統領に保守タカ派のシラクが首相となり、内閣の大半を保守が占める保革共存政府がなった。保守からフランソワ・レオタールが文相に就任し、文化予算を半年凍結して保守派側の方針を優先し、土台を組み立てたばかりの新しい文化省が混乱する時代があったりした*。 2年後の大統領選でミッテランが再選し、社会党を中心とする革新内閣が復帰してしばらくたった90年代初頭のことだ。文相のジャック・ラングが、「これからはフランスのモードも文化に入れましょう」といったことがあった。鉄の壁の向こうで、現代文化とは何かを咀嚼して現実の支援体制を形作ろうとしていた文化省が、少し間口をを開いて、ファッションもクリエーションだから、モード(ファッション)界も文化の仲間入り、といったときに、なんと、当のモード界の人間が反駁したのを今でも鮮明に覚えている。「モードは文化なんかであるものか。商業そのものですよ」と。文化の本質をフランス全体が鋭利に思考する時代は長かった。同じような時期に日本を見ると、いろんなものが混沌として何でも文化になっていくのが不思議で仕方がなかった。この点で、二つの国の「文化」はまったく正反対の方向を向いて進み続け、広がる溝の中で私自身も引き裂かれていくような思いをさせられたが、こんな思いを抱えているのは私だけだろうか。 90年代に私の個展を企画をしてくれた町のアート・ディレクターは、役人を相手に展覧会を打ちたて、奔走して展覧会予算を獲得してまわることを、「ミリタンティズム」という言葉を用いて表現した。ミリタンティズムとは英語のミリタリーと同類語であることがわかるように、攻勢的に戦って勝ち取ることを意味している。20世紀はこんな風に、固いの壁の向こうとアーティストを結ぶ現代文化のミリタン(戦士)がいてくれたのである。(S.H.) (*1986年、保守派の国民議会議員選挙の選挙公約は、それまでフランスの企業の大半が公社といわれる国営企業であったのを民営化していくことだった。したがって、保守派の勝利で文化省において第一に行ったのは、テレビ局を一局民営化することだった。民放のTF1テレビはこのとき誕生している。)