日本政府の暴走、国民の犠牲、どうすれば止められる?…
昨年以来、非常に危険性のある事実が国民の安全を脅かすような事態に直面していながら、政府と国民は真っ二つに分かれどんどん国民が置き去りにされていく状況が続いているようだ。原子力規制委員会はあっても今や不在が如しで、反対に原子力への規制をはずしていく法律が国民に知らされずに国会で次々と可決されているともいう(ビデオ)。原発の寿命許容を40年から60年に引き伸ばし、活断層の調査が無いどころかそれまでの調査書を紛失したまま大飯原発の稼動に踏み切ったり。また大飯原発の稼動で電気が足りるため関電は火力発電を止めるという意向もあるそうで、これを解釈すればこれまで火力発電だけで十分足りていて大飯原発を稼動させる必要は無かった、ということにもなる。デモをしても署名運動をしても選挙をしても国民の声が通じない状況をどう把握すればいいか。
民営化を進めて国が小さくなった、その割りに国民は国の暴走に対する抑制力を発揮できないでいる。政府の暴走を止める役目を持つ組織は何か。フランスの場合、政府の行政立法諮問機関および最高行政裁判所であるコンセイユ・デタ(Conseil d’Etat, Conseil constitutionnel)があって、大統領や政府の言動に行きすぎがあれば待ったをかける。中立的な立場で世界憲法に根ざした意見を臆せず即座に提出し、それをメディアが国民に通達するという透明度がある。日本の場合はどうだろうか。
原発も民営化で資本を持つ人たちの固有の経済論理の中で操られているわけだが、こうした公共性の強い私企業が過失事故を起こした場合の日本の法律はどうなっているのだろうか。25年ほど前の日航機墜落事故では500人以上が死亡したがとうとう賠償は行われなかったというし、先日は106名が亡くなった7年前の列車事故の裁判で犠牲者側が敗訴したという。私企業が起こす大事故に関する国民への補償は、ほとんどゼロという日本。イギリスではそうした私企業の起こす大事故に関する法律があるという。企業に「道徳論」や人権優先を意識してもらう、といった理想だけではどうにもならない。今回の福島第一原発事故では未来を考えると犠牲者の数は計り知れない。当の企業(東電)は国有化されてしまったから政府がその責任の一端を担うということなのだろうが、こうした惨事に一つ筋目をつけ、国民の権利を守る法律が存在しないことにも大きな衝撃を覚える。
民衆の側の論理と政府や企業の論理のあいだに大きなギャップが常に存在しているにしても、人権や安全といった世界基準に抵触する懸念がある場合は、行政の身近に行きすぎや論理の妥当性を問題にし国民と平衡をとる力の存在があって欲しいと思うのだが、日本では無理な話なのだろうか。
国民投票、という方法がある。国民投票は国の党首の是非を問う大きな投票だ。日本国民が国民投票を執行するためにはどうすればいいのだろう。私たちは日本という国の行政制度が上から下への一方通行のみで戦後いままで大きな改革も無くきていることに気づかされている。国を小さくして経済を繁栄させてきたことのつけは甚大だ。今日本は、社会の変動と責任に基づき、かつ一個の人間の権利に基づいた、歴史的な行政と立法の大改革を必要としているように思う。(S.H.)
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避難をする住民が合理的な行動をするために必要不可欠だった情報を隠した政府の責任を問う。
日本人初の宇宙飛行士で、去年の東日本大震災までは福島第一原発から35キロの福島県田村市で有機農業を営んでいた秋山豊寛さんがゲストです。
秋山さんは、原発事故で福島での農業を断念し、現在は京都に移住して大学教授をされています。大切な農地を奪われた福島の農家として、再稼働をどう思うのか、じっくりとお聞きします。
[原発を考える日本の番組から、抜粋ビデオ]
2012.6/21
原発事故後の官僚たち。
■民主主義に隠された官僚独裁主義
http://ac-net.org/common-sense/00b-wolferen.html#1-4
日本に住めなくなる日、2015年3月31日。