一度、世界のトップに立ち、他の国からモデルとしてあがめられた経験を持つ国は、精神の根底で地球レベルのおおきな夢を意識してやまないでいるように思う。文化において、過去長いあいだ先達であり、それがゆえに大きな歴史を形作ったフランスは、世界の文化を導いた過去の栄光を意識しつつ、廃頽した第二次大戦直後、新らたな時代を強く意識しながら、現代から未来へ向かって思考を始めている。
戦後の現代文化を形成する文化省の誕生に寄与した大本の思想。ここに引くのは、そのなかから1956年12月の共和国政府覚書第4号に掲載されたロベール・ブリシェの文章「芸術省のために」の翻訳である。(翻訳: S.H.)

最近の政府議論で、フランス共和国の体制とフランス国民のプレスティージュのために、芸術に関する問題の重要性が浮き彫りにされた。内閣の大多数が芸術省の設立を望んでいる。はたして、共和国は「メセナ」の役割をしなければならないのだろうか。世間は専門家が必要だというが、われわれに言わせるならば芸術家も同じように必要な存在だ。しかしながら、芸術家は自由であることが身上である。芸術家を助け、彼らを苛立たせずに規律の中に入れることが、メセナの義務というべきだろう。共和国はもう何もしないでいるわけにはいかない。この文章を書く著者、芸術・文学国務官である私は、われわれの文化の退廃を嫌というほど見た。はやく、救済策を講じなければならない段階にきているのである。…

1956年7月、若いユーゴスラビア人がラジオ番組で尋ねられて、こう答えた。「私はフランスが好きだ。フランスのアートが好きだからだ」。この心から率直に出たシンプルな言葉は、たくさんの外国人が私たちの国に寄せる気持ちを要約するものだろう。しかし、私たちのまわりには親仏家ばかりがいるわけではなく、多くの人たちから多分に意味を含んだ発言も聞こえてくる。ソレントの近くの車の中で、ベルギー人と、スペイン人、キューバ人、オランダ人の旅行者の会話が耳に入ってきた。彼らは私たちの言語で話をしており、大都市のメリットを比べていたのである。オランダ人が、「パリは、世界の知性とアートの中心地だった」といったが、ベルギー人はこれに答えてこう叫んだ。「それは今世紀の初めのことで、今はぜんぜんそうじゃない。フランスはそのままで止まってしまっているが、そのあいだに他の国が発展している。芸術や建築は特にそうだ。私はフランスはとっくにトップから滑り落ちていると思うね・・・」と、ありとあらゆる世界の事情を取り上げて証拠を並べ立てた。他の旅行者たちがこぞってベルギー人に賛同するのに時間はかからなかった。フランスは決定的な非難を受けてしまったのだ。

いずれにせよ、この二つの対立した意見が存在しても不思議ではない。若いユーゴスラビア人はロマン主義やゴシック、クラシックといった栄光のわれわれの黄金時代を夢想して言ったのである。批判的なベルギー人は一方で、現代のフランスを酷評した。彼は、オルセー駅やグラン・パレ、近代美術館、パレ・ド・シャイヨといったスペインやイタリア、メキシコの装飾やオランダ、アメリカの建築とは比較にならないような建造物ではあるが、これらを除いては帝政失墜以来フランスが何も目立った建造をしていないのを糾弾しているのだ。


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実際、経済、社会、そして植民地政策において大発展をした第三共和制は、芸術についての政策はいっさい持たなかった。

私たちは、ことに絵画において素晴らしい芸術家に恵まれたが、それは公の権力とはかかわりなく発展したものだといわなければならない。つまり、政体を必要としないほど芸術が生命力に満ち溢れていたということなのだ。

イーゼルで描くディメンションの絵画ならまだしも、絵画でも大作やまた制作に費用のかかる彫刻などが、国のコンクールなどに参加することなどはまったく不可能である。
セザンヌ、ボナール、スーラ、レジェ、デュフィー、ピカソ、ルオーなどは国からはまったく無視されていたにもかかわらず、その栄光の頂点を極めることができた。しかし、彫刻が少しの光も放つことができなかったのは、アカデミックなアーティストばかりが取り上げられていたからだ。もしあの時代に国がモニュメンタルな彫刻に興味を持っていてくれたならば、マイヨールのような彫刻家がわれわれに何を残すことができただろう・・・。そんなことを想像するだに、嘆息せずにはいられない。

建築において、リヨンのトニー・ガルニエの実現したものを除けば、国は1000年をかけて、山ほどの教会や大聖堂、城や宮殿を作り続けた歴史からいえば、ナポレオン三世時代からなんらめぼしいものを建造していない。

都市計画において、17、18世紀の王宮広場や都市計画コンセプトの豊富さに匹敵するような近代の足跡はどこにも見あたらない。

(つづく)