時代を変える鍵
九州派の桜井孝美がパフォーマンスで出版した『パラダイスへの道』のおかげで、出版に寄せて1992年および、1993年辺りに書いた拙文が残っている。時間が経っているせいか、1986年のはなしすっかり忘れたようにまったく関係のない当時の時事問題を書いている。 1992年は地方選挙で社会党が大敗。社会党離れはそのまま1993年春の総選挙になだれこんで社会党は5分の一議席しか取れず、内閣解散。再び革新社会党のミッテランを大統領に、エドワール・バラデュール首相を筆頭に内閣はすべて保守系閣僚で組織される保革共存政府が成立した。第一回保革共存政府は、1986年から1988年まで。第二回目の共存政府はこの1993年3月29日から1995年5月まで、つまりつぎの大統領選挙まで続いている。 1993年は、フランスの経済危機で、ル・モンドが「オイル・ショック以来の深刻さ」と書きたて、失業率は3百十万人で11%に届き、中小企業はおろか大企業まで倒産縮小が相次ぎ、エイズ汚染血液の公判が始まり、またインサイダー問題やらなにやらで問題続きの年でもあった。美術界はと見ると、やはり画商の大手が倒産している。すでに1991年の湾岸戦争の影響でマーケットが大幅に萎縮し、ロバート・ロンゴの個展を大々的に行ったギャラリー・アントワンヌ・カンドーが活動停止し、ボードワン・ルボンが倒産請願を提出した。そのころ、私も3つほどの画廊と仕事をしていたが、この年これらの画廊は潰れるか、生き残るために転職をしてしまっている。この恐慌で、あっという間に世の中ががらりと変化してしまった。そんな年だった。 93年下半期、ミッテランが危機を乗り切るために経済対策を発表した。国営企業の24社を民営に移管するよう通達したのだ。この24社は、ルノー公社、エール・フランス、アエロ・スパーシャルなどフランスを代表する大手企業が大半を占め、国の経済を牛耳る元来の社会主義的な体制を解き、いよいよキャピタリズムへ、大きく国の方針が転換することになった。 さて、そのうらがわをよく見てみると、保守派首相のバラデュールは、第一回目の保革共存政府の折に、経済、財務、そして民営化をかねた省の大臣に就いている。むかしから保守派は国営企業の民営化を選挙のたびに公約の一番目においており、1986年も政権を執るとこれを真っ先に遂行した。 93年の経済危機は、そうした保守が大規模な民営化を促進する格好の口実となったのではないか、と漠然と考えたりしている。現実はしかしながら、国営企業は昔ながらのがんじがらめの体制も手伝って一朝一夕に民営化はかなわない。株を少しずつ売りさばいて民間の株主を増やしていくにはかなりの年月がかかっている。 93年の保守内閣の文相はジャック・トゥーボンで、さいわい現代美術に造詣が深かった。大臣になる前はパリの13区の区長でもあり、区内にモニュメントを建てたり集めたりし、またFIAC(パリの現代アートフェア)を訪れる姿を見かけたりすることもあった。 彼の下で文化省はあまり変形されずそのまま推進されたのではないかと想像しているが、問題はほかにあった。文相トゥーボンは、フランス語の乱れを嘆き、それを英語のせいにして「一切、英語を使わない」よう通達してしまったのだ。通達、というのは一種の規則のようなもので、守らなければならない。TVやラジオなどの報道関係は特にフランス語だけで話をするように強制されてしまったかたちで、英語の不得意なフランス人はますます世界から切り離されてしまった。フランスの一般がこの通達にあきれて文化大臣を酷評したのはいうまでもない。 さて、フランス語に関して、後年、特に公文書について国会で意見を述べたエリザベット・ギグの話をここに引いておきたい。 エリザベット・ギグは1997年から2002年、保守シラク大統領の下の革新派ジョスパン内閣で法務大臣に就いた社会党のインテリである。ジョスパン内閣が女性議員を増やし男性議員と同数にするための政策をすすめていた時期だったこともあるが、エリザベット・ギグがある日、国会演説のなかでこう述べた。「公文書は今まですべて男性によって書かれたもので、表現も内容も男性のものということができる。これからは女性が公文書を書く機会を増やし、これまでの公文書も女性の観点で検討されてしかるべきだ」。 この日、この演説を聴いて私は目から鱗が落ちる思いがした。こうした観点がおそらく時代を変える大きな鍵になるにちがいない。(S.H.)