レ・グラン・トラボー (1)
それにしても大工事だった。歴史上にも、「過去に匹敵するようなものは見当たらず、また未来もおそらくなかなか見ないような」とは、ジャック・ラングの第一期文相時代の大臣室長だったジャック・サロワの表現である。フランスの変貌を歴史的にみると、おそらく19世紀のオスマン男爵のパリ都市改造計画が大きなものとして目立っているが、1980年代のそれは都市改造という言葉だけに還元するようなものではなく、それをさらに大きく上回る何かが胎動していて、まさしく前代未聞の時代であった。時間がたったこんにち、その成果や失敗やらを含めて「今」を見極めるために振り返ってみる必要を感じている。 1981年に始まった《レ・グラン・トラボー》は、「文化」の大工事であったことをもういちど明らかにしておかなければならない。ほんとうの建設工事の始まりだったから、大工事をそのまま訳して《レ・グラン・トラボー》とよんだ。省内では建設現場そのものだから「シャンティエ(工事現場)」とよんだらしい。フランソワ・ミッテラン大統領が音楽、文学、現代芸術、科学技術などの文化のあらゆる分野において最も活発にして優秀な活動を実現する現場となる建物を建設することを決定して開始した大工事のことである。 国のすみずみまで、そしてできるだけ多くのフランス人にいかなる国の文化財産へも、またいかなる形態の現代芸術の誕生やその変遷へも自由にアクセスを可能にしてやりたいという念願に応えて(これは1959年、アンドレ・マルローが文化省の第一の目的として条例化した課題)、この工事の中には、ルーブル美術館の再建、いまだインスティテューションが行き届かない地域へ文化施設を敷設することも組み込まれたのはいうまでもない。 1989年のフランス革命二百年記念祭にあわせていくつかの大きな新しい文化施設の開館予定を、当時の文相ジャック・ラングがこう説明している。 「1989年7月14日は、ミッテラン政権時代の大きなポイントとなります。グラン・トラボーのうち重要なものが完成し、首都の文化における地理構造が明解なものになります。西は新都市ラ・デファンスの開幕、東はバスティーユ・国立オペラ開館、中央はルーブル美術館のピラミッド完成、そして北は科学技術館ビレットができるわけですから」。 ルーブル美術館の大工事《ル・グラン・ルーブル》は完成に約20年かかったという。地下のむかしのルーブルの発掘に始まり、 マルローが夢見たように、財務省に撤去してもらいルーブル宮を丸ごと美術館にした。財務省にどいてもらうからには財務省の入る新しい建物が要る。したがってベルシーの用地に新しい財務省を建設することをきめて実行した。 収蔵作品は、ルーブルが1848年の最後の王政までをカバーすることが決まっていたから、この後の時代の美術にかんして、1970年代に工事をストップされていたオルセー駅の改造計画を呼び覚ました。ついで、ジュー・ド・ポーム印象派美術館から19世紀の作品がここに移され、19世紀美術館と命名される。空になったジュー・ド・ポームはというと、現代アートの現場が少ないという意見があったからか、国立現代アートセンターに改造されて名前も改名し、現代作家の活動を企画することになった。 ひとつ何かを動かすとチェスのようにほかも動いていかなければならない。建物を動かすその裏側で、大きな文化の大編成が逐次行われていたのは、すでに言及したところである。 先のジャック・サロワは、「インスティテューションを敷衍するだけでは文化の地方分権にはまったく不足だ」と述べている。各分野の中心となる建物を建設しておのおのの凝縮した制度を確立することは、国民の目をいっせいに文化にひきつけるひとつの手段でありまた始まりでしかないことを、彼らが十分に理解していたことを指す一文だ。パリ中が工事で地響きを立てていたとき、「大きなシャンティエに隠れて、ほんとうに進めていかなければならなかった地方への機構作りは、大本の中央の機構作りが同時に行われていたこともあり、なかなかマネージメントうまくいかず葛藤がありすぎた」とも述べている。大工事に隠れたほんとうの大事業が、サロワの文章に「Combat 戦い」やら「Militer 闘争する」やらといった攻撃的な言葉が同じページに3度も4度もでてくるように、彼らに底通する日々の執着だった。 文化省のトップにいた人たちにとっても、文化を再建することは「戦い」そのものだったのだ。 予算を勝ち取って展覧会企画をしてくれる文化のミリタンの話をしたが、こうしてみると、この時代は文化を担う人々に「戦う」姿勢が上から下まで充満していた時代だったのだなあ。