れきしの点と線

1956年12月の共和国政府覚書第4号に掲載されたロベール・ブリシェの文章「芸術省のために」。(翻訳: S.H.)

ここに挙げるのは、ジロドゥーが都市の推進者としてこの件について述べたものである。
「もし、都市計画において、国民が現代生活のリズムやその運営を維持する総合的な規律が理解できるのだとしたら、フランスはたぶん、この点で、世界のうちでもっとも遅れた文明国家だということが言えるだろう。市民の精神的な特権をフランス人に求めているだけで、われわれの指導者たちは、生が横溢し大志にみちた国の生活からたち現れる類まれな大志やイニシアティブといったものは、国全体の平均以下の生活や不毛な儀式めいた生活の中には存在しないということを、一切認めようとはしなかったのだ。」(Gireaudoux, Sans pouvoir, P.225)…

音楽的創造において、ましな見解は望めない。一般は古い音楽にしか興味を持たない。実際、新しい音楽は退けられている。どんなオーケストラもプログラムに新しい音楽を入れるような冒険をしようとはしなかった。アルチュール・オネゲールの言葉を聞いてみよう。
「有名なシンフォニーは、一般の領域にあり、音楽協会の書棚の置いておくには格好の材料である。有名な曲はいつも演奏されているので、練習も少なくて済む。一方、新しいシンフォニーは練習が必要だ。難しく、またオーケストラが知らないからでもある。その上、他の費用がかかる。たとえば、楽器を借りたり、といったような。クラシックなシンフォニーは大衆を呼び寄せることができるが、新しいシンフォニーを演奏すると、まま会場が埋まらない。
ハイドンやモーツアルトの時代には、一般大衆のほうが新しい創作音楽を望んだものなのだ。だから、彼ら音楽家たちはあれだけたくさんの曲を残した。こんにちはしかしながら違う。重ねて言うが、われわれの聞いているのは作品ではなく、すでに知られた作品の演奏であるに過ぎない。」(Arthur Honegger, L’artiste dans la société contemporaine. Témoignages recueillis par l’Unesco, P.62)

この、音楽に対する興味のなさは、音楽教育の欠落から来ており、その責任はすべて政府にある。
創造活動の周辺をみてみよう。パリ国立コンセルヴァトワール(音楽院)は、オーディション室さえ持たない。ポール・デュカが言っていたように、この国ではサーカスか劇場で音楽をするありさまだ。
その上、フランスでは、国民の音楽教育のために民衆がこぞって聞きにいけるようなコンサートホールさえ存在しない。現在存在しているホールは、みな私営であり、営利主義のものばかりである。 コンサートに莫大な費用がかかってアーティストには一銭も利益が残らないようなこんな条件の下で、音楽がひどく限られた一般的には金持ちにしか聞かれないのは、驚くばかりではないか。
ラジオがこうした欠落を補えるわけがない。ストラビンスキーが言ったように、音楽的な感覚は実践がなくては発展させることなどできないのである。
「音楽は、ほかのいかなる分野と同様に、何もしないと感覚が鈍化し、身体的機能が萎縮するのである。ラジオから聞かされる音楽は、精神を活発化させるどころか、麻痺させる一種の麻薬のようなものだ。音楽企業がさらに聴いてもらうために流す音楽は、音楽への興味をそそるよりもかえってうんざりさせるという結果を招いているのが何よりの証拠だ。」

(つづく)