フランスから―環境とアートのブログ

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現代文化と国について

数日前にこのブログで、フランスは外国人に永住権も与えないし、法的に職業規制があったりで思った職業にも就けない、という話をした。 「私たちは芸術家でよかったわね。芸術家にはだれだって自由になれるのだから」と同じ建物に住むスエーデン人が言ったことがあった。フランスの外国人は自由に職業を選ぶことができないという硬派のフランス社会についてはなしをしている最中に飛び出した意見だったが、このときの私はうーんとうなったばかりでうまい返事は出てこなかった。国から何の制限もない芸術家職は、そんなフランス社会の厳しいプロテクショニズムとは関係がない、とこのスエーデン人は言いたかったらしい。しかし、本当にそうだろうか。周りの人々が汲々として決められた制限のなかで生きているのに、そうした色に染められた社会の見識から免れて芸術家だけが自由を享受できる、というのはむしのいいはなしではないだろうか。 20年近く前フランスは、現代文化において「政府メセナ」のモデルとして日本でも盛んに紹介された。私企業のメセナが多く立ち上がったアメリカや日本と違い、フランスは政府が現代文化を援助する大きな体制を作り上げたからだ。資本主義の米日が「民」ならば、社会主義よりのフランスは「官」、として国のあり方を対立させてみてもいいかもしれない。フランスの企業はその大多数が国が株主で「公社」であったから、もともと私企業のメセナが育つ土壌も当時は僅少だった。そうした国の経済のありかた同様、現代文化もフランスは政府が指揮を取って政治のうえで采配しようとし、1981年、フランス文化省を復活させた。 この文化省に、現代アートを支援する「造形芸術庁」が発足して現代芸術のメセナ的な仕事を始めることになるのである。その仕事は実に緊密で、まずは「現代アート」の定義からスタートする。国の言う現代アートとは、狭義の流行のアートのことを指すのではなく、現代生きて仕事をしている作家が生み出すアートすべてを指す。したがって、すべての生きて仕事をしているアーティストとそのアートを対象にしている。生きているかぎり芸術家は、他の職業者同様、税金を払わなければならず社会保障も受けなければならない。そうした社会の一員としての義務が果たせるように国がメセナ的役割をもってサポートし、実利的な仕事を創造してアーティストにリンクをする役割を自分に課した。(公団住宅の枠内で芸術家用アトリエ建設、作品買い上げと作品公庫の設置、芸術活動への援助金制度、カタログ援助、展覧会援助、コマーシャルギャラリーとは質の異なるアートの発表を目的とした展覧会施設開設と相互リンク、公共建造物に作品を入れる法律〈1%〉、情報センターなどの芸術活動に必要なネットワークと施設を設ける、等々。) 国の現代芸術政策は、なかば芸術家の生活に結びついた福祉的な性質を大きく含みつつ、芸術育成をめざした組織的な構造が徐々にまた全国レベルで作り上げられていったのだ。 さて、現代芸術のリーダーがフランスの「国」であることは、何を意味するだろうか。現代から将来に向けて創られる現代文化も、ここでは政治の一環となっているわけだから、文化再興の理論の底流には、フランスのプロテクショニズムが大いに働いている。 1960年に初めてできた文化省は、初の文化大臣アンドレ・マルローの省内スタッフによってその真意が明らかにされている。「将来、世界が望むようにフランスの精神的尊厳を回復し、文化の(世界における)指導的立場をとりもどすことを念頭に、(戦後退廃しておざなりにされ、すっかり他の国に追い越されてしまった)フランス文化を建て直す」ことを大目的とすると。そうして1981年の文化省の再興は、マルローの意思をそっくり引き継ぐ作業の実現から始まっていることを指摘しなくてはならないだろう。 外から来た文化人たちは私を含め、フランスから跳ね返されるような勢いをしばしば感ぜずにはいられなかったのは、それだけ当時、この国の現代文化政策がエネルギーを持っていたことを意味するのだと思う。このフランスの勢いのおかげで、文化という大きなテーマについて、フランスの長い間の論議を認識する機会を何度も得ることができた。また、自分がいるフランスからフランスの思想をもってはじき出されることで、自分はそれではいったいどの文化に向かって作家活動をしているのだろうか、という疑問につきまとわれるようになってしまっている。 フランスに来なければ、この国が長いあいだ熟成してきた「文化」への論理的アプローチのなかに浸って、文化とは何かという大命題に接する機会はおそらくそうそう無かっただろうから、フランスには大いに感謝をしているが、一方で、この国で活動を始めてすでに27年たったいまも、自分がどの文化に向かって制作を続けているのかという疑問は疑問のまま、将来もきっと解決することはないだろうと思っている。(S.H.)

フランス、現代文化政策の終焉か?

新文化省にみる現代文化政策崩壊のきざし - ニコラ・サルコジが大統領に就任した年(2007)の12月に発案されていた文化省の再構成が、2010年1月13日、実施の運びとなった。それまで10の各文化・芸術分野の専門の管理局があったが、4つにまとめられて「見通しの良い管理構成を持つ目的で」あたらしい文化省が発効した。(政府の文化エキスパートの放逐と文化行政部の縮小とみられる。) 新たな文化省の構成は以下のとおり。 ・Le secrétariat général(事務総局)、 ・La direction générale des patrimoines(文化遺産局)、 ・La direction générale de la création artistique(芸術創造局)、 ・La direction générale des médias et des industries culturelles(メデイア・文化産業局)、 省間庁: Délégation générale à la langue française et aux langues de France(フランス語とフランスの言語総合庁) 地域の文化省: ・Directions régionales des affaires culturelles(DRAC 地域文化振興局) ・Services départementaux de l’architecture et du patrimoine(建築文化遺産に関する県内サービス) ・Les établissements...

ネットワーク

文化省の造形芸術庁は、アーティストの活動サーキットを多様化することにも尽力した。 もちろん画廊システムが存在し、あちこち公の展示場もあり、アーティストが発表活動ができなかったわけではない。しかし、画廊はマーケット中心に動いているから、作品の選択も新しいアーティストの採用も、利益優先で行うのが常である。 したがって、ほんとうは多様なはずのアートはいってみれば経済にふるいにかけられて極限され、一般の目に触れるアートは流行一辺倒に陥りがちだった。この意味で、マーケットも負けずに閉鎖的である。 そうした商業中心の芸術市場の間口の狭さに注目した文化省は、まったくマーケット基準から離れ、新しく生まれるアートがそれなりに形になり、きちんと人の目に触れられる活動の現場をつくることに力を入れ始めた。新しい世代のアーティストの育成を目指して、文化省がもうひとつの活動様式を提供したといえるだろう。 地方には80年代、すでにいくつか大きなセンターが現代アートの活動をそれなりに行っていたが、文化省が声をかけて彼らの活動に援助金を回すしくみを敷設した。もとは地域のバックアップのものもあり、また町のものもあり、アソシエーションのものもあったが、ほとんどがしっかりした規模の活動をすぐさま発展させられるような施設の整った現代アートセンターが選ばれ、「文化省つきの現代アートセンター」という総称をもってネットワークを形成したのが80年代後半の話である。これらの現代アートセンターで受け入れるアーティストは、マーケットの外で自由に創造活動するアーティストでなければならず、そのアートはそこで今新しく生まれるアートでなければならなかった。 ばらばらだった現代アートの現場は、こうしてまとめられていき、そのことによって現代アートセンター自身も使命感を増幅していった。文化省つき現代アートセンターの連携は90年代にはりるとまたたくまに、ドイツやイタリアの現代アートセンターまでのび、ヨーロッパのアーティストの巡回やイクスチェンジの場ともなり、ようするにフランスの現代アーティストをヨーロッパに送りだす窓口の役割を担うまでになったわけである。(S.H.) CNAP-国立造形芸術センター登録、全国87箇所の現代アートセンター、住所録ページ Annuaire de 87 centres d’art contemporain en France (CNAP)

現代文化、れきしの点と線 - 芸術1%

芸術1%(アーティスティック1%)とは、公共建造物の建築あるいは改築改造などが行われる場合、その建設バジェットで環境に見合った美術作品を制作あるいは買い上げることを取り決めた政令のことをさしている。 歴史:フランスでは1951年からこの制度が出現しているが、80年代の新文化省は1%アーティスティックを、文化省が決めたインスティテュートとはまた別の「アートと一般が接する」プロジェクトであり、「アーティストの生活と税制ステータスを助けるシステム」と改めて明確にし、まずは造形芸術庁(DAP: Délégation aux arts plastiques)がこれを采配した。ちなみに造形芸術庁は、1.芸術創造の支援システム、2.現代芸術を将来の国の財産として買い上げていく、3.あらゆる方向の芸術が生まれる可能性を増やすための活動サーキットの創造と増幅、のおおよそ三つの大柱を中心に推進し、80年代半ば国立造形芸術センター(CNAP: Centre national des arts plastiques)を作り、造形芸術庁と連携したかたちでその活動を現実へ向けて立体化している。 1990年代は1993年の経済恐慌の痛手に伴い建設計画も激減し、数少なかった1%プロジェクトはいよいよ水面下にもぐりほとんど公募が消滅した感がいなめなかった。 21世紀にはいり、ようやく2002年、シラク(保守)政権下ジョスパン内閣(社会党革新派中心、1986年とは逆のあらたな保革共存時代)が改めて1%に関する政令を見直した。このとき、1%の管理はDRAC(Direction régionale des affaires culturelles 地域文化振興局-各地域に設置された文化省管轄の文化活動支援局)に渡されている。2002年のこの政令は2005年2月4日、ラファラン内閣時(文相はジャン=ジャック・アヤゴン)に改定され、1%アーティスティックを義務制度として再発令した。2006年8月16日に文化省が実際の手続きを全国に通達して今日に至っている。 義務化した1%アーティスティックは2006年以降、当然のことながらプロジェクトの量を増やしつつある。公共建造物は国のみならず、地域(Régionと呼ばれる数県をまとめた地域のことで、関東地方や関西地方のような分割に当たる)、県、市町村が所有するものが多い。たとえばフランスの公立学校の管轄を例に挙げると、高等学校は地域、中学校は県、小学校・幼稚園は町が管理し、新設校の建造や旧校舎の再建はそれぞれの管理者が行うきまりとなっている。そうした教育施設の新築再建築に伴い発生する地方の1%を、当初は文化省の地域担当官であるDRACが引き受けた。しかし今日は、文化省にたよらず、地域議会や県議会が独自に1%プロジェクトを采配するところが増加しており、そうした公共団体は直接一般へ公募でアートプロジェクトを募っている。 地方の自立傾向は、こうした1%プロジェクトのアート選びにも見受けられる。これは政府が文化のみならず、政治その他の体系を分権化(Décentralisation, Déconcentration)しようとして長年政策を進めた賜物のひとつといえるだろう。 2008年あたりから、1%アーティスティック・プロジェクトのバジェット増加が少しずつはじまった。物価高騰によるところが大きい。

現代文化、れきしの点と線 - ミリタンティズム

20世紀のアーティスト・イン・レジデンスをレジデンシーの氷河時代といったが、アーティスト・イン・レジデンスに限らずこの時代の現代アート政策全体の閉鎖性は、今のフランスの開けた現代アートの現場を考えると、おそらく必要不可欠の昆虫で言えばサナギの時代だったのだろうと思う。フランスが自分の現代アートの方向性を真剣に試行錯誤していた時代で、ほかからの異物の因子の浸入もすみずみまでコントロールしなければならなかった。 ちょっと彼らの文化の歴史を振り返ってみると、史上初の文化省設立はアンドレ・マルローが担当して1959年に実現した。10年続いたのだが、その間に実行に移せた現代文化プランはメゾン・ド・ラ・キュルチュール(文化会館)を全国で三軒建てただけにとどまった。予算がほとんど出なかったのだ。しかしインテレクチュアルのマルローとマルローを支える知識集団が、文化について、またこれからの現代文化について検討しつづけ、夢を明文化した。明文化したものは文化省の貴重な基本概念となって今まで生き続けることになった。その主旨のひとつは、「いままで特権階級にのみアクセスが可能であった芸術を一般市民のすみずみにまで鑑賞可能なものにしたい」、そのための文化政策が必要だというものであった。 1970年代、ポンピドーのあとを継いだジスカール・デスタン政権は、文化省を局程度に格下げした。もともと多くなかった文化予算はこうして大幅削減した。またこの時期はオイル・ショックで世界中が恐慌をきたし、フランスもどん底を味わっている。 社会疲弊を苦しみぬいたフランスは、1981年の大統領選挙で社会党のミッテランを選んだ。文化省の再建は、このミッテラン政権下で行われた。確か、この80年代の文化省は、10個の庁で構成されていたように記憶している。文化環境調査、音楽・ダンス、劇場、文学、アーカイブ、遺跡、映画、美術館、文化教育、そして造形芸術庁の10個である。造形芸術庁は現代芸術の専門の庁として、美術館からも遺跡管理からも、また美術教育からも独立した機構を初めて確立した。独自の機構の確立とは、機構独自の思想の確立のことである。現代芸術のインフラストラクチャー作りがこうして始まった。造形芸術庁のもとで、現代アーティストの作品買い上げ制度、アトリエ建設、1%プロジェクト、アーティスト・イン・レジデンス、支援金制度などが少しずつ推し進められた。地方への敷衍は、各地域に文化振興局を配置して文化省からの援助金をすみずみの文化活動へ注ぎ込めるようにし、また作品買い上げも地域ごとに組織をつくり、その地域のアーティストの作品を中心に買い上げる組織を作りはじめた。経済的に厳しかった70年代からの立ち上がりでもあり、また、新しい機構作りを並行して行いながらの編成である。82年に文化予算を倍増したものの、思うところへ思う予算を回すにはどうしても時間がかかった。勢いいつものように、思想のほうが先行せざるを得なかった。まだ何も実現しないうちに肝心の思想が潰れてはいけない。必要以外のものから新しい組織を防衛する必要もあっただろう。おそらくそんな時代に、私などは彼らの鉄の壁のような閉鎖性に向かい合っていたように思う。 事実、文化省再建は決して順調にはいかず、再建後5年も経たない1986年、国民議会議員選挙で社会党が敗退し、社会党のミッテランを大統領に保守タカ派のシラクが首相となり、内閣の大半を保守が占める保革共存政府がなった。保守からフランソワ・レオタールが文相に就任し、文化予算を半年凍結して保守派側の方針を優先し、土台を組み立てたばかりの新しい文化省が混乱する時代があったりした*。 2年後の大統領選でミッテランが再選し、社会党を中心とする革新内閣が復帰してしばらくたった90年代初頭のことだ。文相のジャック・ラングが、「これからはフランスのモードも文化に入れましょう」といったことがあった。鉄の壁の向こうで、現代文化とは何かを咀嚼して現実の支援体制を形作ろうとしていた文化省が、少し間口をを開いて、ファッションもクリエーションだから、モード(ファッション)界も文化の仲間入り、といったときに、なんと、当のモード界の人間が反駁したのを今でも鮮明に覚えている。「モードは文化なんかであるものか。商業そのものですよ」と。文化の本質をフランス全体が鋭利に思考する時代は長かった。同じような時期に日本を見ると、いろんなものが混沌として何でも文化になっていくのが不思議で仕方がなかった。この点で、二つの国の「文化」はまったく正反対の方向を向いて進み続け、広がる溝の中で私自身も引き裂かれていくような思いをさせられたが、こんな思いを抱えているのは私だけだろうか。 90年代に私の個展を企画をしてくれた町のアート・ディレクターは、役人を相手に展覧会を打ちたて、奔走して展覧会予算を獲得してまわることを、「ミリタンティズム」という言葉を用いて表現した。ミリタンティズムとは英語のミリタリーと同類語であることがわかるように、攻勢的に戦って勝ち取ることを意味している。20世紀はこんな風に、固いの壁の向こうとアーティストを結ぶ現代文化のミリタン(戦士)がいてくれたのである。(S.H.) (*1986年、保守派の国民議会議員選挙の選挙公約は、それまでフランスの企業の大半が公社といわれる国営企業であったのを民営化していくことだった。したがって、保守派の勝利で文化省において第一に行ったのは、テレビ局を一局民営化することだった。民放のTF1テレビはこのとき誕生している。)