警察権力:

保革共存政府が成った1986年は、クリストがポン・ヌフを包んだ年でもある。おそらくこの前年のことだと思うが、当時、パリ市の市長であったジャック・シラクの下で、市の文化担当官だったフランソワーズ・ド・パナフュー(現在パリ17区の区長)が、クリストのプロジェクトをジャック・シラクに提出したとき、シラクはこう対応したそうだ。「もし成功したら、それは私のおかげ。失敗したら、あなたのせい」。この問答は、いかにもシラクの政治家の一面を物語っていて面白い。

この1986年は、保守内閣による強力な警察権力の行使でいろどられた。不法滞在者の検挙がパリ中で行われたが、その検挙方法がすさまじかった。警察官を7、8人のグループにして警戒させランダムに通行人をとめては検査をした。そのとき身分証明書を携帯していない者はその場で捕らえられ、連行された。
メトロの中では各駅で、改札口を入ったすぐのところにやはり同じ人数だけのグループの警官が待っていた。フランスのメトロはいったん改札を入ると、もう後へは戻れない。後ろには機械、前には警察官が立ちふさがり、逃げる隙間はなかった。このようなネズミ捕りのような仕掛けの中で、不法滞在者たちがつぎつぎと検挙され、検挙されると即日ロワシー空港のわきの留置所に連れて行かれて、大概の者はそのまま3日後には国外追放された。警察官だらけのパリの街が何ヶ月続いたかわからない。この取締りで捕まり国外追放された不法滞在者の数は1万5千とも2万人ともいわれている。

このとき一人の日本人が検挙された。日本では九州派で知られる桜井孝美だ。彼もロワシーの脇の留置所へそのまま連れて行かれて犯罪人のように取り調べられた挙句、飛行機を待つことになった。幸い、すぐに弁護士が介入して難を逃れ、裁判へ持ち込まれて審議されるまでいったん猶予期間を与えられることになった。裁判では、桜井孝美がフランスにいる価値のある芸術家であることを証明して、滞在許可をもらおうというのが、本人と弁護士の希望であったように記憶している。そこで桜井孝美は、周辺のフランス人や日本人の知人を集めて文書を取り、自分はこれだけの人たちに支持されているという証明として電話帳のような厚さの陳情書を作り上げた。私も書いた。桜井孝美は、この話に周辺の人たちを巻き込んで文書を作るからには、アート・パフォーマンスにするとあちこちに表明し、陳情書は『パラダイスへの道』と名づけられて内容も変化しつつ数年間、本人の手で発行され続けた。裁判はというと、滞在の手続きをきちんと取るという条件で勝利したというはなしをきいている。

外国人滞在者の管理は警察にあり、われわれの滞在許可証の発行や書き換えは滞在地の警察で行うきまりである。現在の不法滞在者の扱いや国外追放のありかたは、実はこの1986年のような強行なすがたとあまり変わらない。
数年前偶然、エデュカシオン・サン・フロンティエール(無国境教育)という協会があるのを知った。大方が学校の先生のボランティアで全国組織を持つ。彼らの主な仕事は、生徒を警察に検挙されたり、国外追放の危険から守ることにある。親が不法滞在であっても子供には教育の権利があり、実際フランスの教育の恩恵を受けている外国人の子供たちが大勢いる。教育の場に警察がはいり、そうした子供たちや子供を送り迎えする親を検挙したり、また高校などの卒業式の日に学校を取り巻いて、教育の権利を終えたばかりの生徒を正門で捕まえ、国外追放を強行したりすることが頻繁にあるらしい。そうした警官隊を前に、生徒を渡さないように同級生や先生がスクラムを組んで衝突する場面がままTVで報道されたりしている。

2010年初頭、モロッコ人の女子高校生が兄に殴られ怪我をしたので警察に駆け込んで訴えたところ、警察は兄を捕まえずにこの女子高校生を捕縛した。女子高校生が滞在許可証を持っておらず不法滞在と判明したためで、即座に国外追放されてしまった。ここで活躍したのは高校の同級生たちと エデュカシオン・サン・フロンティエール(無国境教育)協会で、内務省や大統領に陳情して女子高校生のフランス入国許可を取り付け、女子高校生は無事帰還しみんなに歓待されたことがメディアでも話題になった。異例の入国許可に怒ったのは、内務省の規約どおりこの不法滞在者を国外追放した土地の知事で、女子高校生の再入国直後、辞任したという結末になっている。(S.H.)